フラーテルカップ第6節(最終節)

2025年 3月 18日

3月16日(日)にフラーテルカップ第6節(最終節)が開催されました。

 

 


残念ながら雨天のため、午前開催するはずだった【ジュニアリーグ】と【ミックスリーグ】は中止となりました。

 


午後の【トップリーグ】は実行委員長の田中さんのおかげで何とか開催することができましたが、やはり参加者の集まりは悪かったようです・・・。

 

 


今シーズンの締めくくりがこんな形となり残念でたまりません。

 

 


運営の方、スタッフの方、チーム関係者の皆様、ご協力ありがとうございました。

 

来シーズンに向けて作戦会議をしましょう!!

 

来シーズンの開催をお楽しみに!!

2025年西日本広域ホッケー大会に参加しました

2025年 3月 11日

3月9日(日)に「2025年西日本広域ホッケー大会」に参加しました。
@はなの里スタジアム(名張市民ホッケー場)

 

 


集合時間が現地に9時集合と早かったのですが、
集まった参加者たちはホッケーを楽しみました!

 

 

 

 

愛知スポーツ俱楽部は県外のホッケー大会や、イベントにも参加しています。

フラーテルカップ第4節

2024年 12月 20日

12月15日(日)に年内最後のフラーテルカップを開催しました。
 

今回は可愛い、かわいいジュニアリーグの練習風景をお届けします。
 

試合前はチーム関係なくみんなでウォーミングアップと合同練習をします。

 

まずはしっかり走って・・・
 

 
ドリブル・・・
 

 
それ、よいしょ。
 

 
見ているだけで癒されるちびっこ集団です。
 
みんなホッケーがほんとうに上手なんですよ!!
 
お父さんお母さんも子どもたちと一緒に走ったり練習をしたりしています。
ホッケーの経験ができるだけじゃなくて、家族の絆も深まるフラーテルカップです♡
 
最後になりましたが今年も1年ありがとうございました。
笑顔あふれるフラーテルカップになって私自身もとても楽しかったです。
 
残念ながら1月の開催ができませんが、次の開催でまた元気にお会いしましょう。

 

 

バリエンテカップ第5節

2024年 2月 14日

2月11日(日)にバリエンテカップ第5節を開催しました。

 

少しずつ春らしくなってきましたね。
まだ、朝夕は冷えますが、昼間はポカポカして気持ちが良いですね。

 

受験生にとっては大切な時期ですね。
志望校に合格したという嬉しい知らせもちらほら届き始めましたよ。

 

春はもうすぐそこですね。

 

 

さて、バリエンテカップですが、今回も盛り上がりました!!!
県外からの参加も比較的多かったように思います。

 

月に一度、ホッケー好きが集まるバリエンテカップ。
来月が今シーズン最後のバリエンテカップになります。

 

トップリーグはいよいよ激しい優勝争いとなるでしょう。

 

ミックスリーグとジュニアリーグは順位はつきませんが、
たくさんの経験を積み重ねて、人生の財産になるといいなと思います。

 

 

それでは、来月3月17日(日)にまたお会いしましょう~。

 

 

3月11日(土)三重県6人制ホッケー大会に出場しました

2023年 3月 15日

3月11日(土)「三重県6人制ホッケー大会」に出場しました。


愛知スポーツ倶楽部は中学生のホッケープロジェクトをやっているので、 ここでは中学生の話がメインです。(青:中学生、オレンジ:小学生)

 

中学生の結果は2勝1敗。


まずまずの結果でしょう・・・。
なんだか、ハードな試合だったのだとか。




「フィジカル面で負けた感じがする・・」と感想をもらしていた子もいました。

技術うんぬんの前に、まずは体づくりからかな??

小・中学生は成長の時期なので、
まずは、「よく食べて」、「よく寝て」、あと勉強も忘れずに!!!(^^)

それからまた、ホッケーの練習を頑張りましょうね!


勝敗ももちろん大事ですが、みんなが楽しくホッケーをして、
元気に帰ってこられたなら、それが一番良いですよ。

 

でもやっぱり、、スポーツをするからには、試合をするからには「負けたくない!」ですよね。
いろんな試合や経験を通して、みんなが成長していくのを楽しみにしています。




みんな良い顔しているでしょう~。やり切った感が半端ない!!


 

あ、そうそう・・・・。

中学3年生の3名が、4月からそれぞれの高校へ進学です。まずは、卒業おめでとう。

いつも一緒にいたのに、バラバラの学校へ進学というのは少し寂しいですね・・・。

でもこれもまた、「大人への第一歩」ですね。

小さくて可愛かった子たちは、背も伸びてたくましい感じがします。

また会う日まで!!

2022-23第4節/フラーテル・カップ

2023年 2月 22日

2月12日(日)にフラーテルカップ第4節が開催されました。



この日はフラーテルの選手が来てくれて、とくにジュニアリーグの小学生たちはとっても楽しそうでした!!
ニコニコ笑顔がとっても可愛い小学生たちです。ちょっぴり恥ずかしがり屋さんもいるのかな(^^)


ミックスリーグは高校生や学生を中心としたチームが多いですが、今回は学校の都合で多くの高校生チームが欠場に・・・。
せっかくフラーテルの選手が来てくれたのに、とっても残念です。

 

大人はフラーテルの選手に混ざってもらって本気の試合をしました!!!
フラーテル選手の方が熱くなっているようにも感じましたよ。


そしてトップリーグは、「vsフラーテル」の試合が4試合くらい組まれており、
いつもとは違う熱い!熱い!戦いでした。
天候もとても良かったですからね、ますます熱かったですよ!

 



もしかしたら、フラーテルの選手は手を抜いてくれていたのかもしれませんね。
お互いに得点し合って、面白い試合がたくさんありました。

いつもは、遠くからしか見れない選手たちと今回は一緒にホッケーをしたり、対戦したり、直接プレーを教えてもらったりと、良い機会になりましたね。

大人たちにとっても貴重な体験になりました。
大人たちはきっと、翌日は全身筋肉痛で辛い一日を過ごされる方もいるでしょうね・・・。
日頃の運動不足解消のための、1日にもなりましたね。

【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第216回  サッカー・杉山隆一

2014年 11月 26日

 「アルゼンチン戦の得点は、半世紀がたったいまでも鮮明に覚えています。左から中央に切れ込み、相手のペナルティーエリア左角付近で右足を振り抜きました。練習で繰り返していた得意の形だったので、うれしかったね」
 50年前の1964年東京五輪をこう振り返るのは当時のサッカー日本代表、杉山隆一。アルゼンチン戦は駒沢競技場で行われた日本の初戦。そして鮮明に覚えているという得点は同点ゴールとなる日本の1点目だった。この試合、日本は南米の強豪を3-2の逆転で下す。杉山は試合後、アルゼンチン側から「20万ドル(当時1ドル=360円、約7200万円)で、連れて帰りたい」と言われたという。「20万ドルの左足」と称されるようになる理由だ。まさに歴史的勝利だった。
 この大番狂わせから遡ること4年弱。1960年11月、後に「日本サッカーの父」と称されるデットマール・クラマーが初来日を果たす。以降、日本では自国開催となる東京、続くメキシコ五輪に向けた研鑽の日々が始まる。杉山は苦笑いとともに当時を振り返る。「1960年にクラマーさんが来て、初めてボールリフティングを見たんですよ。いま考えたら笑っちゃう。サッカーの基本を代表合宿で初めて教わったんだからね。基本的な蹴り方も教わりました。クラマーさんは『これが代表選手なのか』とびっくりしたでしょうね」―。
 1941年7月4日生まれ、静岡県出身。中学時代からサッカーをはじめ、清水東高時代に国体で優勝。19歳で日本代表入りし、明治大在学中に東京五輪を迎えた。俊足を生かし、アルゼンチン戦に続くガーナ戦でも1得点1アシストの活躍を演じた。試合は2-3で惜敗したが、D組2位で準々決勝に進出し、チェコスロバキア(当時)に0-4で敗れはしたが、8強という好結果を残した。
 そして、この東京五輪から銅メダルに輝いた4年後のメキシコ五輪まで、多くのメンバーが残ってチームは成熟していく。杉山は「東京でアルゼンチンに勝って、『自分たちにもできる』と自信をつけた経験は大きかったんでしょうね。同じ顔ぶれで連携を磨くこともできました。振り返ると、東京五輪はメキシコで表彰台に立つための大きな通過点だったですね」。
 メキシコでも、杉山は5アシストを記録するなど、チームを支えた。大学卒業後は三菱重工で活躍。1969、1973年と2度の日本リーグ優勝などにも貢献した。1974年に現役引退し、請われてヤマハ発動機監督に就任。静岡県リーグ2部チームを日本リーグ1部に押し上げ、現在のジュビロ磐田の基礎を築いた。その後も後進の指導、競技の発展に寄与、現在も静岡県サッカー協会副会長を務めている。=敬称略(昌)

(提供 日本トップリーグ連携機構)

【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第215回  柔道・岡野功 

2014年 5月 28日

 事実上の決勝戦と見られていたのが準決勝の金義泰(韓国)戦だった。1964年東京五輪。この大会から正式競技となった柔道の中量級(80キロ以下)には20選手が参加した。岡野は準々決勝まで危なげなく一本勝ちを続け、そして迎えた準決勝。右の組み手をしっかり取ると、連続で得意の背負い投げを繰り出す。序盤から攻めに攻めたが、4月に痛めた右膝負傷の影響もあってか、決めきれず、判定にもつれ込んだ。それでも終始攻め続け、小外掛けで相手を横転させての優勢勝ち。決勝で対戦したホフマン(西ドイツ=当時)からは横四方固めで一本勝ちを収め、期待通りに金メダルに輝いた。
 1944年1月生まれ、茨城県出身。竜ヶ崎一高から中大法学部に進み、在学中に東京五輪を迎えた。柔道を始めた動機の一つが「ケンカが強くなりたいから」とも。初めて買ってもらった柔道着を宝物のように大切に扱ったという。穴があけば、つぎあてをし、寝るときには枕元に置いた。道場に通う子供はみなそうだった。そういう時代だった。
 柔道の魅力を知り、才能を開花させていった少年は、小さな体から繰り出す切れ味鋭い一本背負いが武器。五輪を迎える頃には「昭和の三四郎」とも呼ばれた。技の切れ味ばかりではない。自らを冷静に分析することもできた。五輪前に負傷した右膝を抱えて大舞台に臨むことを考え、寝技を重点に練習を積んだ。それが狙い通りに五輪の決勝で生きた形だった。
 翌1965年、岡野は初めて体重別で行われたリオデジャネイロ世界選手権の中量級でも圧勝。すでに、この階級では国内外に敵はいなくなっていた。そして当時は、無差別級こそ柔道―という思考が色濃く残っていた時代。体重別で行う五輪などとは違い、体重無差別で争う全日本選手権が世界一を争う舞台とも見られ、いま以上に注目を浴びていた。中量級に敵がいなくなった岡野にとっても目標はそこになっていた。
 金メダルを獲得した五輪から3年後、1967年の全日本選手権を制覇した。身長171センチ、体重78キロの体で無差別級王者に。まさに柔よく剛を制す―だった。体さばきとタイミングで一本背負いを繰り出し、大型選手を撃破した。2年後の1969年にも再び全日本の頂点に立つ。そして引退。引退後は道場を設立し、各大学で師範を務めるなど、後進の育成に尽力した。=敬称略(昌)

(提供 日本トップリーグ連携機構)

【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第214回 水泳・ベルリン五輪競泳男子800メートルリレー

2014年 4月 30日

 エース萩野公介(東洋大)の台頭をきっかけに、競泳男子自由形を重点強化中の日本。中でも800㍍リレーはその国の自由形の実力が反映されるだけに、注目種目となっているが、以前は男子自由形、そして男子800メートルリレーが「お家芸」と呼ばれた時期もあった。
 1936年ベルリン五輪。大会11日目に行われた男子800㍍リレーはまさに圧巻だった。メンバーは1915年1月生まれの21歳、遊佐正憲(香川県出身)、1916年1月生まれの20歳、田口正治(京都府出身)、やはり1916年8月生まれの新井茂雄(静岡県出身)、そして1917年5月生まれの19歳、杉浦重雄(静岡県出身)の若手4人。このうち、前回五輪で同種目を経験していたのは遊佐だけで、他の3人は五輪の舞台に立つのも初めてだった。それでも期待が大きかったのは、遊佐と新井が100メートル自由形の優勝候補にも挙げられるほどの実力の持ち主だったからだ。
 期待が大きく膨らむ中、第1泳者の遊佐がスタートよく飛び出し、第2泳者の杉浦もその勢いをつなぐ。そして第3泳者の田口から、アンカーの新井にリレーしたときには独走状態で、注目は金メダルの行方ではなく、タイムに注がれていた。歓声の上がる中、2位米国に15メートルもの大差をつけてゴール。前回1932年ロサンゼルス五輪で日本がマークした世界記録8分58秒4を、7秒近くも更新する8分51秒5の世界新記録で五輪連覇を達成した。
 驚異的な記録の誕生には、伏線があった。800メートルリレー同様、前回ロサンゼルス五輪で金メダル(宮崎康二)に輝いていたのが100メートル自由形。この大会では当然、日本勢2連覇の期待がかかっていた。だが、思わぬ形で足下をすくわれてしまった。田口も含めて3人が進んだ決勝。日本勢同士で意識し合ったのか、伏兵のチック(ハンガリー)に金メダルをさらわれ、0秒3差の57秒9で遊佐が銀メダル、銅メダルに新井、そして田口は4位に終わった。「水泳ニッポン」としては、800メートルリレーは、優勝を逃した100メートルの雪辱の舞台でもあったのだ。
 800メートルリレーは、戦後も日本のお家芸として継承され、1952年ヘルシンキ五輪で銀メダル、1960年ローマ五輪でも銀メダル、1964年東京五輪では銅メダルを獲得している。だが、その後、男子自由形は世界のパワーの前に水をあけられ、メダルを獲得できない状況が続く。復活が待たれる。=敬称略(昌)

(提供 日本トップリーグ連携機構)

【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第213回 アーチェリー・道永宏

2014年 4月 23日

 何が起こるか分からないのが五輪。とはいってもアーチェリーでメダル獲得を予想した者など当時はいなかったに違いない。1976年モントリオール五輪でのことだ。
 前回1972年ミュンヘン五輪で52年ぶりに復活したアーチェリー。このミュンヘン大会での日本選手の最高成績は17位だっただけに、4年を経たとはいえ、男女各2人の代表のうち、1人でも入賞してくれれば、「御の字」というのが関係者の本音だった。というのも、4人のうち3人までが国際大会の経験がなかったというのだから、メダルを期待する方が無理というものだった。
 そんな周囲の予想を大きく覆したのが、同志社大2年、19歳の道永宏だった。初の国際試合が五輪だったにもかかわらず、度胸満点のプレーを披露して快挙を達成してしまったのだから競技関係者もさぞや驚いたことだろう。
 競技は7月27日から4日間の日程で行われた。道永は初日に3位につけると、得意とした50メートルと30メートルが行われた2日目も3位をキープ。3日目は苦手の90メートルと70メートルだったが、正確に的を射抜き続けて2位に浮上した。迎えた最終日。「怖いもの知らず」の道永もさすがに重圧に押しつぶされそうになったというが、勢いは止まらず、そのまま逃げ切り、銀メダルに輝いた。
 1956年10月生まれ、神戸市出身。両親がともにアーチェリー選手とあって、4歳の頃からアーチェリーに触れて育ったという。もっとも中学時代は体操部で、本格的にアーチェリーを始めたのは高校入学後。それも高校にはアーチェリー部がなく、神戸アーチェリークラブで練習に励んだ。練習に明け暮れた日々、いつしか「練習量は日本で一番」という自信が自らを支えていた。神戸市でアーチェリー用具店を経営していた元世界選手権代表の父の指導も大きかった。
 日本初のアーチェリーでのメダル獲得の瞬間を見守ったその父は、号泣。その横で道永の笑顔は輝いていた。「日本人は腕力がない。これを補ってくれたのが父です。家の近くの90メートルの射場でよくしごかれたものです」と道永。父子でつかんだメダルでもあった。道永は、大学卒業後も競技を続け、1980年モスクワ五輪を目指したが、日本の不参加が決まり、競技の一線から退いた。=敬称略(昌)

(提供 日本トップリーグ連携機構)