まさに〝スーパーエース〟と呼ぶにふさわしい活躍だった。箱根駅伝では、いきなり大学1年から花の2区に抜擢され、総合優勝に貢献。2年は1区で区間新(1時間1分13秒)を、3年では2区で区間新(1時間6分48秒)を叩き出した。「とにかくモノが違う」とは早大OBの名ランナー、瀬古利彦の評だ。4年でも2区で8人抜きの激走を披露した。華やかな世間の注目を浴び、早大の渡辺康幸は走り続けていた。
当時の代名詞は「有言実行」。瀬古の持つ1万㍍日本学生記録(27分51秒61)の更新も公言していたことの一つ。大学4年の世界選手権予選で27分48秒55をマークし〝瀬古越え〟を果たすと、後日、「絶対の練習をして絶対の自信があったから言うんです」と語っている。
若き天才ランナーは将来、マラソンで世界の強豪と勝負する青写真を描いていた。ただ、この道は真っ直ぐ栄光に向かってはいなかった。
まず大学3年の3月、びわ湖毎日でマラソンデビューを計画した。しかし、風邪と花粉症でコンディションを崩し出場を見送るはめに。挽回を期した翌年2月の東京国際。アトランタ五輪男子マラソンの代表選考レースの一つだったが、ここでも欠場。レース前日の練習で左太ももに肉離れが発生したのだ。スタートにすら立てない状況に「僕がこのまま終わるような選手だと思ってほしくありません」。無念の涙がほおを伝った。
幸い故障は軽く、わずか3週間後のびわ湖毎日に強行出場。だが、先頭集団に付けたのは35㌔すぎまで。そこから後退し、2時間12分39秒の7位。五輪切符は露と消えた。「意識が朦朧として前が見えなかった。足に来た」。簡単に勝てるほど42・195㌔は甘くなかった。
大学卒業後はヱスビー食品で競技を続けたものの輝きは戻らなかった。慢性的な左アキレス腱の痛みが癒えないまま2002年、引退。「走る意欲、向上心をなくしてしまった」。フルマラソンは、あのびわ湖毎日が唯一の完走レースとなった。
現在は母校・早大の駅伝監督として指揮を執る。就任当初こそシード落ちも経験したが、2010年度には箱根駅伝で総合優勝に導き、出雲、全日本と合わせ大学駅伝3冠を達成した。栄光も挫折も知る、かつての〝史上最強の学生ランナー〟は「やはり日本人のスターが出てこないとね」と語る。箱根を、そして世界を目指す戦いは、指導者に立場を変えて続いている。=敬称略(志)※記録は全て当時
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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第212回 陸上・渡辺康幸
【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第211回 車いすバスケットボール・京谷和幸
かつて将来を嘱望されたサッカー選手がいた。京谷和幸。高校時代、全日本ユース代表に選出されたミッドフィルダーだ。悲劇は1993年11月、ジェフ市原でプロデビューを果たした1週間後に起きた。乗用車を運転中、脇から出てきた車を避けきれず、電柱に激突。気が付くとベッドの上で点滴の管を付けていた。
2カ月後、医師から一生、車いすだと告げられた。下半身不随だった。事故後、交際していた陽子さんの強い勧めで、宣告されたときにはすでに結婚していた。彼女は歩けなくなることを知っていたのだ。事実を突きつけられた京谷に、新妻は「2人なら乗り越えられるよ」と言ってくれた。なぜか頭に来た。「お前に俺の気持ちが分かるか。いいよな、お前は泣けて、俺は悲しすぎて涙も出ねえよ」。当時22歳。気持ちのやり場が見つからなかった。
1人になったら泣けてきた。夜通し泣いて涙が枯れ、空腹に気付いた。「俺には食べ物を買ってきてくれる人がいる」と思った瞬間、妻の言った「2人なら」の意味が染みた。「落ち込んでいられない」。翌日からトレーニングを始めた。負けず嫌いを地でいく男は、1年半以上掛かると言われるリハビリを8カ月でクリアし退院した。
車いすバスケットとの出会いは、陽子さんが障害者手帳の交付手続きに行った役所で、窓口担当をしていたクラブチームの指導者に誘われたのがきっかけだった。初めて練習に行った時、京谷は「こんな真似はできない」と思ったという。腕だけで車いすを漕ぐのもきつかったが、もっときつかったのは止まることだ。走っている車輪を素手で止めると、手の皮がベロリとむけた。
だが、これも練習を重ねることで克服。ガードのポジションでサッカー仕込みの攻撃センスを発揮し、頭角を現していく。パラリンピックの代表を意識するようになったのは、人工授精で授かった長女の存在が大きかった。「この子が誇れる父親になりたい」。サッカー選手だった頃は自己中心的だったと反省し、欠点を全て捨て去るつもりで臨んだ。そして、シドニー、アテネ、北京と3大会連続でパラリンピックに出場。北京では日本選手団の主将も務めた。
両足の自由は確かに失った。ただ、それを乗り越えた先で得た「充実感」は、とてつもなく大きく深かった。「家族がいて、夢中になれる車いすバスケがある。もう、仮に医学が発達して足が治るとしても、このままでいい。今の自分が好きなんです」=敬称略(志)
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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第210回 大相撲・高見盛
歓声が降り注ぎ、座布団が乱れ飛んだ。勝ち名乗りを受ける時には叫んでいた。
「勝ったのか、俺。勝ったんだ」
平成15年名古屋場所、西前頭3枚目の高見盛(本名・加藤精彦)は横綱朝青龍から金星を奪ってみせた。相手の強烈な張り手にひるまず、得意の右差し。かいなを返して寄り切る完勝だった。14年に及ぶ現役生活で、思い出に残る取組に挙げたのが、この一番である。
昭和51年5月12日、青森県板柳町でリンゴ農園を営む家の3男として生まれた。小学4年生のとき、大柄だった加藤少年は担任教諭に相撲を勧められた。一度は断ったが、「入部したら好きなだけ給食を食べさせてやるぞ」の口説き文句に首を縦に振った。中学高校と全国制覇。日大ではアマチュア横綱に輝いた。「人生は一度。どうせならとことんやってみよう」。それまで考えていなかったプロへ。東関部屋の門を叩いた。
11年春場所、幕下付け出しで初土俵を踏んだ。転機は西前頭7枚目で迎えた12年秋場所だった。3日目の取組で右膝前十字靱帯を断裂してしまう。「ブチブチと音がした」。目の前が真っ暗になった。途中休場に全休2場所。番付は幕下まで落ちた。
少しずつ体を戻し、1年半かけて、ようやく幕内に戻った14年春場所。土俵に上がると足が震えた。「幕内は、十両と雰囲気が違った。土俵に上がるのが恐くてどうしようもなかった」。無意識のうちに自分の顔面を思い切り殴っていた。最後の仕切り前、気合注入の〝儀式〟は、こうして生まれた。
自らを奮い立たせながら取り続け、古傷の右膝や右肩などが限界に達した25年初場所限りで引退。年寄「振分」を襲名した。
東関部屋の稽古場には傾いた鉄砲柱がある。通常、鉄砲柱には、押しの基本である「脇を締めて腕を前に押し出す」動きをするものだ。しかし、高見盛は得意の右差しを磨くため、入門以来、鉄砲柱に右肩から当たる動作を繰り返してきた。そのため、かしいでしまったのだ。技術の修得について「教えればできるというものではない。毎日やるという気迫がなきゃ、できない」と語る振分親方。次の夢は「多くの日本人力士を誕生させて若貴ブームのような大相撲人気を復活させること」だという。=敬称略(志)
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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第209回 スキー・ジャンプ 葛西紀明
「今までの(競技人生の)全てが詰まっている」―。メダル授与式で葛西紀明はこう言って顔をほころばせた。1992年アルベールビル大会から7大会連続で五輪に出場し、追い求めてきた個人種目でのメダル。2014年ソチ五輪ノルディックスキーのジャンプ男子ラージヒルでようやく銀メダルに輝いた。冬季五輪での日本勢最年長メダルであり、日本勢のジャンプでの表彰台は1998年長野五輪以来16年ぶりの快挙でもあった。
1回目に最長不倒タイの139メートルを飛んで2位につけると、2回目も133・5メートルをマーク。合計277・4点は優勝したカミル・ストッホ(ポーランド)に1・3点差だった。「もう少しで金に届きそうだった。6対4で悔しい」と語ったが、2回目のジャンプを終えると、ほかの日本メンバーたちが駆けつけて祝福。ともに喜び合った。
「(団体銀のリレハンメル五輪は)みんなでうれしさを味わった。きょうは独り占めで本当にうれしい」という言葉に実感がこもる。ここまで長い道のりだった。悲運のエースとも呼ばれた時期があった。高校1年からワールドカップ(W杯)に参戦。当時の最年少となる19歳でW杯初優勝も飾った。それ以来、世界の第一線で活躍し続けてきたが、五輪の個人メダルには縁がなかった。さらに、所属先は2度も廃部に。1994~95年シーズンには着地で転倒し、鎖骨を2度も折った。それでも諦めなかった。
葛西を支え続けたのは、長野五輪で味わった悔しさだった。地元開催の五輪で日本は団体金メダルに輝いたが、直前の故障でメンバーから外れた。「4年に1度、五輪が近づくと、あの映像が流れる。悔しくて仕方ない」。札幌市内の自宅にトレーニング器具をそろえ、ランニングは一日も欠かさない。体重計には1日に何度も乗り、体調管理に努めてきた。
迎えたソチ五輪シーズン。1月のW杯では最年長優勝も果たした。若手に劣らない活躍ぶりに、海外勢も畏敬の念を込めて「レジェンド」と呼ぶほどだ。
それだけに、悲願の個人メダルはうれしかったに違いない。それでも涙はなかった葛西が、団体ラージヒルでは泣いた。合計1024・9点を挙げての銅メダル。日本は2回目の3人目を終えて3位に付け、最後に葛西が飛び、銅メダルを確定させた。
万全な状態のメンバーはいなかった。膝を痛めながら出場した伊東大貴、竹内択は試合後に難病の「チャーグ・ストラウス症候群」の疑いが高いと診断されていることを告白した。だからこそ「後輩たちにメダルを取らせてあげたかった。4人で力を合わせてメダルを取れたことがうれしい」。瞳に光るものがにじんでいた理由だった。=敬称略(昌)
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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第208回 アルベールビル五輪ショートトラック男子5000㍍リレー
個人では力及ばずとも、チームでなら戦える―。ノルディックスキー複合、ジャンプ、陸上では男子400メートルリレー、競泳ならメドレーリレー……団体競技で数多くのメダルを獲得してきた日本。ショートトラックでもそうした〝伝統〟の力が発揮された。1992年アルベールビル五輪男子5000メートルリレー。この大会から正式種目となったショートトラックは男子1000メートル、男子5000メートルリレー、女子500メートル、女子3000メートルリレーの4種目が行われた。1988年カルガリー五輪では公開競技とあって選手村にも入れないという状況の中で、女子3000㍍の獅子井英子の金メダルなど、3つのメダルを獲得する活躍を見せていたニッポン。正式種目となって迎えた五輪での活躍はショートトラック界にとって死活問題でもあった。
しかし、状況は様変わりしていた。「世界のレベルが上がっている上に、(海外勢も)目の色を変えてきている」。厳しい戦いを余儀なくされ、メダルに届かないまま、最終種目の男子5000メートルリレーを迎えた。
悲願のメダルをかけた決勝。しかし、日本はスタートで出遅れてしまう。1周111・12㍍のリンク。カーブがきつく接触、転倒が伴う競技で、ニュージランドとし烈な3位争いを繰り広げた。残り7周で河合季信が3位に浮上すると、必死のリレーを見せる―。
実はこのとき、日本選手団の旗手を務めた川崎努は絶不調に陥っていた。不調の22歳は決勝出場辞退を申し出たほどだったという。しかし、仲間に励まされ、気持ちを奮い立たせてリンクに立った。そんな川崎を、赤坂雄一、河合、石原が見事にフォローした。ゴール直前、最後は河合が激しくまくって3位でゴール。「アンカー勝負ができるよう力をためていた」と河合。まさに狙い通りの展開に、納得の表情が浮かんだ。もちろん、どんなにチームワークがよくとも、個の力があってこその団体。河合自身、筑波大大学院を1年間休学して競技に打ち込んできた努力があったからこその歓喜の瞬間でもあった。そして、ここから日本ショートトラック界の五輪史が始まる。まさに記念の一日となった。=敬称略(昌)
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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第207回 スキージャンプ・八木弘和
1980年レークプラシッド五輪70㍍級ジャンプの1本目。青色のジャンプスーツを着た八木の踏み切りは遅く、高度は低かった。それでも持ち前の足の強さでスキーを引きつけ、87㍍まで持っていった。2位。そして勝負の2本目。1位につけたインナウアー(オーストリア)は90㍍を飛んでいた。先行されたことで力みが生まれたか―。踏切のタイミングが悪く、思うような飛距離は出ない。83・5㍍。「あれでよく2位に残れたものだ」と父で日本代表コーチの博氏がいうほど、納得の内容とは遠かった。
とはいえ、前回1976年インスブルック五輪で入賞者すら出せなかった日本にとってはスキー、スケートを含めて前々回の1972年札幌五輪以来のメダルであり、レークプラシッド五輪でも、この銀メダルが結果として唯一のメダルとなった。
1959年12月生まれ、北海道小樽市出身。明大時代に全日本学生選手権を制した父は、息子が小学6年の時に指導を開始した。「こいつはものになる」。信念のもとスパルタ教育を施す父。その期待に応えるように、札幌五輪金メダルの笠谷幸生が「いつでも60%以上の力を発揮できる」と評価するまでに心身の強い選手に育っていった。
1979年-80年のシーズンに新設されたジャンプのW杯で優勝1回、シーズン総合4位にもなった。そして五輪。成功とはいえない2回目の飛躍もあって「10位位内に入れればいいと思った」というが、銀メダルという結果に「いつも『普段着のジャンプをしろ』といわれていたので、それを心掛けました」と思わず熱いものがこぼれた。その傍らには、やはり目を潤ませて「でかした」と喜ぶ父の姿もあった。練習を始めた小学生以来、まさに親子二人三脚で獲得した銀メダルだった。
その後は故障にも悩まされ、1984年サラエボ五輪後に引退。1989年にオーストリアにコーチ留学し、1991年にはデサントのスキー部監督に就任して、1998年長野五輪ラージヒル個人と団体で金メダルを獲得した船木和喜を育てた。その後、日本代表コーチなどを歴任し、日本ジャンプ界の発展に力を注いだ。=敬称略(昌)
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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第206回 モータースポーツ・佐藤琢磨
日本モータースポーツ界の新たな歴史を切り開いた。2013年4月21日、米国カリフォルニア州ロングビーチ。市街地を走る1周3・17㌔のコース80周で競うレースで、前半に首位に立つと、そのまま逃げ切ってみせた。2位に大差をつけての完勝だった。「夢のようだった。優勝するときはこういうふうに来るんだということを感じた」。北米最高峰の自動車レースとされるインディカー・シリーズで、佐藤琢磨が日本人ドライバーとして初めて頂点に立った。
バイタリティーは10代のころからずば抜けていた。10歳のときに三重県鈴鹿市で開催されたF1日本グランプリを観戦し、そのスピード感や臨場感に魅了されたという佐藤だが、学生時代にまず夢中になった乗り物は、自転車だった。和光学園高校(東京)では、自らが中心になって自転車部を立ち上げ、高校総体で優勝。1995年に早稲田大学進学後も自転車部で活躍し、同年のインターカレッジで2位、96年には全日本学生選手権で優勝した。
同年代のトップとして着実に結果を積み重ねてきた第一人者だけに、そのまま自転車競技を続けてもおかしくないところだが、佐藤の決断は違った。子供の頃から抱き続けていたモータースポーツへの強い憧れから、鈴鹿レーシングスクールに入学し、主席で卒業。大学を中退し、レーシングドライバーの道を歩み始めた。
そして、2002年にF1デビューを果たし、04年の米国グランプリで3位に入るなど順調に成長を続けた。しかし、思わぬ形で状況は暗転した。当時の所属チームが金銭面で厳しい状況に追い込まれ、08年に撤退する事態に。F1復帰の道を模索したものの、かなわず、新たな活躍の場として選んだのが、インディカーだった。
シリーズ参戦4年目、52戦目での快挙に、「メジャー大会での初優勝なのでうれしい。大きな自信につながった」と手応えを口にした佐藤。今年もまた、新たな高みを目指して、ハンドルをにぎり続けている。=敬称略(謙)
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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第205回 ノルディックスキー複合・河野孝典
日本が冬季五輪に初参加した1928年サンモリッツ大会から代表を送っているノルディックスキー複合で、個人種目でメダルを獲得したのは1994年リレハンメル大会で銀メダルに輝いた河野孝典のみ。W杯で3度総合優勝を果たした荻原健司も、五輪の個人種目では4位が最高成績だった。
その唯一のメダルだが、河野への期待が大きかった訳ではない。期待されていたのは、やはりエースの荻原。飛躍(ジャンプ)でリードして距離(クロスカントリー)で逃げるのが日本の必勝法だったが、リレハンメルでは飛躍で日本勢は奮わず、荻原が6位と出遅れる中で、4位につけたのが河野だった。
1969年3月、長野県野沢温泉村に生まれた河野は、5歳からスキーを始め、小学校4年でジャンプ、中学1年で複合を始めた。飯山南高から早大に進学すると、大学3年時に世界ジュニア選手権で知り合ったノルウェー選手の元に自費留学。本場の選手の生活や最先端のトレーニング法を学び、「結局は孤独に勝つこと」との信念を身につけたという。そして、この留学での経験を元に練習を積み、W杯などでの躍進につなげていく。
そして迎えたリレハンメル。後半の距離(15㌔)に向け、河野は「まだ半分終わっただけじゃないか。前向きに走ります」と挑んだ。言葉通り、スタート直後に3位に上がると、3㌔過ぎからは地元ノルウェーのビークと銀メダル争いのデットヒートに。「最後に1㌢でも前に出ればいい」と歯を食いしばってのゴール。ビークとはわずか0秒8差の2位に入った。「いい走りをすれば必ずメダルに届くと思っていた。ラスト1㌔で前に出たのは計算通り」。早大の後輩でもある荻原の陰に隠れがちな存在だったが、その荻原とともに1992年アルベールビル、そしてこのリレハンメル大会と、団体で2大会連続金メダルを獲得した河野が、日本に複合初の個人のメダルをもたらした瞬間だった。=敬称略(昌)
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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第204回 スキー ジャンプ・原田雅彦
競技開始が約30分も遅れる激しい風雪に見舞われていた。1998年長野五輪スキー・ジャンプ団体。金メダルが期待される日本は1回目、岡部孝信、斎藤浩哉が好調な滑り出しで首位に立ち、3番手の原田雅彦の順番を迎えた。
原田には期するものがあった。4年前のリレハンメル五輪ジャンプ団体。このとき、「日の丸飛行隊」には1972年札幌五輪以来の金メダルが目前にまで迫っていた。2本目で西方仁也が135㍍、続く岡部孝信が133㍍、葛西紀明が120㍍と見事な飛躍を見せ、1回目トップのドイツに55・2点差をつけて逆転。最後の原田が105㍍を飛べば、優勝だった。しかし、ここでまさかが起こる。「踏み切りのタイミングが狂った」という原田は97・5㍍と大失速。ドイツに再び逆転を許し、銀メダルに終わった。うずくまり、しばらく動けなかった原田。1980年レークプラシッド五輪で、八木弘和が銀メダルを獲得して以来の日本勢のメダルとはいえ、素直に喜ぶことは出来なかった。長野はその雪辱の舞台でもあった。
だが、ここでも再び失速を演じてしまう。猛吹雪が災いしたのだろう。79・5㍍。続く船木和喜も伸びず、日本は4位と出遅れてしまう。「また、みんなに迷惑をかけるのかな」。原田の心は乱れた。
1968年5月生まれ、北海道上川町出身。身長173㌢。小学校3年の時からジャンプを始め、上川中学時代には、史上初の中学生代表として世界ジュニア選手権に出場した天才も、リレハンメルでの失速で自信を喪失。五輪翌年の1995年にはフォームの改造がうまくいかずに、W杯メンバーからも外された。失意の日々を乗り越え、努力を重ねて迎えた長野五輪。それだけに、このままでは終われない―。
迎えた2回目、日本は岡部がバッケンレコードの137㍍をマークし、首位を奪還。そして原田も137㍍の大ジャンプを披露してチームに貢献。最後の船木が125㍍を飛び、夏冬を通じて日本にとって通算100個目となる五輪金メダルを確定させた。その瞬間、涙顔の原田が真っ先に船木に抱きついた。「よかった。みんな頑張ったなぁ」―。感慨深げな原田の涙声が会場に響いた。
長野では個人ラージヒル(LH)でも銅メダルを獲得した原田。世界選手権では1993年にノーマルヒル(NH)、97年にLHを制覇してもいる。長野後には、2006年トリノ五輪にも出場。しかし、NHはスキーの長さに対して体重が足りずに失格してしまう。そして、そのシーズンで競技人生を終えた。=敬称略(昌)
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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第203回 陸上・室伏広治
五輪翌年としては12年ぶり、合計で8度目の出場となった2013年世界選手権(モスクワ)。男子ハンマー投げ予選を76メートル27の予選全体8番目の記録で決勝に進出した室伏広治は、大舞台でファウル覚悟の賭けに打って出た。その狙いを「無心で投げてタイミングが合えば、うまくはまれば、80メートルを超えたかもしれない」―。こう振り返った。実際、1投目で今季ベストの78メートル03をマーク。だが、ここまで。雄叫びがあがるような投擲は最後まで見られずに6位。表彰台ラインには届かなかった。
前年のロンドン五輪で銅メダルを獲得した。これで五輪や世界選手権など世界の第一線で活躍していくことには一区切りをつけるのではないか、とも思われた。だが、6,7月に米国で練習を積んだ本人は仕上がりに手応えを感じ、モスクワ入り後に最終的に出場することを決断したという。38歳で臨む世界選手権について「どういう結果が出るか分からないが、全力でいくしかない。年齢の限界に挑戦したい」と意欲を見せてもいた。これまで五輪翌年の2005年と2009年は「体を休めるため」もあって欠場を選択してきた。それだけに、今回の決断の背景には練習での手応えを持った上で、「年齢への挑戦」への思いが強かったのだろう。
1974年10月8日、静岡県生まれ。成田高(千葉)―中京大、中京大大学院と進み、教壇にも立ち、後進の指導にもあたる。父は「アジアの鉄人」とも呼ばれたハンマー投げ選手の重信。1998年には父が持っていた日本記録を更新し、2003年6月のプラハ国際陸上では84メートル86を投げて日本記録をマークした。2004年アテネ五輪では1位となった選手がドーピングで失格し、繰り上げで金メダルを獲得。2008年北京五輪は5位入賞にとどまったが、2011年の世界選手権(韓国・大邱)を制し、日本陸上史上初の五輪、世界選手権の2冠を達成し、モスクワ世界選手権には2連覇がかかっていた。
モスクワ大会を前、日本選手権で19連覇を達成した際の記録は76メートル42。これは世界選手権出場予定の29選手中23番目だった。記録から見れば、メダルは遠い。年齢から来る衰えもあり、疲労の度合いも若い頃とは違う。父・重信が「記録を出すなら3投目だった」と語ったように、80メートル超えを連発していたころとは、やはり違った。それでも、77メートル前後の投擲を6投目までそろえたのは、さすがだった。世界選手権を終えた室伏は「よく体を休めながらやっていきたい。できるだけ長くがんばりたい」と語った。「鉄人」らしく、年齢、そして肉体の限界に挑む姿勢は変わらない。=敬称略(昌)
(提供 日本トップリーグ連携機構)