五輪翌年としては12年ぶり、合計で8度目の出場となった2013年世界選手権(モスクワ)。男子ハンマー投げ予選を76メートル27の予選全体8番目の記録で決勝に進出した室伏広治は、大舞台でファウル覚悟の賭けに打って出た。その狙いを「無心で投げてタイミングが合えば、うまくはまれば、80メートルを超えたかもしれない」―。こう振り返った。実際、1投目で今季ベストの78メートル03をマーク。だが、ここまで。雄叫びがあがるような投擲は最後まで見られずに6位。表彰台ラインには届かなかった。
前年のロンドン五輪で銅メダルを獲得した。これで五輪や世界選手権など世界の第一線で活躍していくことには一区切りをつけるのではないか、とも思われた。だが、6,7月に米国で練習を積んだ本人は仕上がりに手応えを感じ、モスクワ入り後に最終的に出場することを決断したという。38歳で臨む世界選手権について「どういう結果が出るか分からないが、全力でいくしかない。年齢の限界に挑戦したい」と意欲を見せてもいた。これまで五輪翌年の2005年と2009年は「体を休めるため」もあって欠場を選択してきた。それだけに、今回の決断の背景には練習での手応えを持った上で、「年齢への挑戦」への思いが強かったのだろう。
1974年10月8日、静岡県生まれ。成田高(千葉)―中京大、中京大大学院と進み、教壇にも立ち、後進の指導にもあたる。父は「アジアの鉄人」とも呼ばれたハンマー投げ選手の重信。1998年には父が持っていた日本記録を更新し、2003年6月のプラハ国際陸上では84メートル86を投げて日本記録をマークした。2004年アテネ五輪では1位となった選手がドーピングで失格し、繰り上げで金メダルを獲得。2008年北京五輪は5位入賞にとどまったが、2011年の世界選手権(韓国・大邱)を制し、日本陸上史上初の五輪、世界選手権の2冠を達成し、モスクワ世界選手権には2連覇がかかっていた。
モスクワ大会を前、日本選手権で19連覇を達成した際の記録は76メートル42。これは世界選手権出場予定の29選手中23番目だった。記録から見れば、メダルは遠い。年齢から来る衰えもあり、疲労の度合いも若い頃とは違う。父・重信が「記録を出すなら3投目だった」と語ったように、80メートル超えを連発していたころとは、やはり違った。それでも、77メートル前後の投擲を6投目までそろえたのは、さすがだった。世界選手権を終えた室伏は「よく体を休めながらやっていきたい。できるだけ長くがんばりたい」と語った。「鉄人」らしく、年齢、そして肉体の限界に挑む姿勢は変わらない。=敬称略(昌)
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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第203回 陸上・室伏広治
【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第202回 大リーガー・上原浩治
歓喜の輪の中心に上原浩治はいた。2013年10月19日に行われた米大リーグのプレーオフ、アメリカンリーグ優勝決定シリーズ第6戦。5-2でレッドソックスがタイガースをリードして迎えた九回にマウンドに上がった。最初の打者をフォークボールで空振り三振に仕留めると、ヒートアップした声援を一身に浴びた。2死から安打を許したものの、イグレシアスから再びフォークボールで三振を奪い、跳び上がって捕手と抱き合い、喜びを爆発させた。リーグ優勝決定シリーズで1勝3セーブ。この好成績で同シリーズ日本人初のMVP。「こんなにできるとは思っていなかったし、ここで賞をもらえるとは予測していなかった」。満面の笑みが広がった。
1975年4月3日生まれ、大阪府出身。東海大仰星高時代は意外にも控え投手だった。大学受験にも失敗し、1年浪人して大阪体育大に入ってから頭角を表していった。「(浪人時代は)硬球も触らなかった。あの1年があったから今の自分がある」。いわゆる野球エリートではなく、自らを雑草に喩えた「雑草魂」という言葉は、後に流行語にもなるが、不屈の闘志で自らを磨いていく姿勢はこのころから変わらない。
大学3年時の1997年、日米大学野球では14奪三振。翌1998年のドラフトで大リーグ挑戦と悩みながらも、巨人に入団。1999年は新人ながら15連勝を記録し、新人投手の記録としては1966年に堀内恒夫が記録した13連勝を33年ぶりに塗り替えた。さらにシーズン成績としては20勝4敗の好成績を挙げて、両リーグを通じて1990年の斎藤雅樹以来9年ぶり、新人投手としては1980年の木田勇以来19年ぶりの20勝投手となり、新人王と沢村賞も受賞した。
フリーエージェントの権利を行使して2009年に渡米。オリオールズ、レンジャーズを経て2013年シーズンからレッドソックス。切れ味鋭いスプリット、制球の良さなどが評価され、レッドソックスではシーズン途中から守護神として定着し、大リーグでは自己最多となる21セーブを挙げた。自身初のワールドシリーズ。レンジャーズ時代の2011年は、優勝決定シリーズでポストシーズン初の3戦連続被弾という屈辱を味わい、ワールドシリーズはメンバーから外されていただけに、まさに雪辱の舞台。その大舞台では、第4戦の九回に登板して1回を1安打無失点で締めて、ワールドシリーズでは日本投手初となるセーブを挙げた。活躍を続ける38歳は「いつかはアマチュアの指導者にもなってみたい」という。その夢の実現は当分、先になりそうだ。=敬称略(昌)
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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第201回 ラグビー・田中史朗
大男ぞろいの中を、小柄な体が躍動感あふれる動きで、時に突破し、時に素早くパスを回し、つなぐ―。世界最高峰のラグビー・リーグ「スーパーラグビー」。2013年、166センチ、75キロのスクラムハーフ、田中史朗は日本人として初めてその大舞台に立った。スーパーラグビーは、NZ、豪州、南アフリカの強豪3カ国の15チームが参加し、ワールドカップ(W杯)で優勝を争うチームの代表や代表予備軍がしのぎを削る世界屈指のリーグだ。
1985年1月生まれ、京都府出身。伏見工高1年の時に全国高校ラグビーで優勝。京都産業大を経て、2007年に三洋電機(現パナソニック)に入り、1年目からレギュラーとして活躍していた。そんな田中が、海外挑戦を決意したのは自身初出場となった2011年W杯ニュージーランド(NZ)大会で胸に刻んだ悔しさにあった。この大会で日本は1分け3敗と惨敗。ラグビー人気が長く低迷する中、代表に魅力がなければ人気回復は望めない。「申し訳ない」という思いでいっぱいだった。世界と競える実力を養うには何をすればいいのか-。結論は海外への挑戦だった。
2012年春。所属するパナソニックの理解も得て、NZに渡り、オタゴ州代表としてプレー。持ち前の素早いパス回しで高い評価を受け、「日本のラグビーも世界に通用する」と手応えをつかんだ。そしてスーパーラグビーのハイランダーズ入りが実現。厳しいポジション争いを経て、2013年2月の開幕戦でいきなり初出場を果たすと、4月には初先発。そして5月には日本人として初トライも決めた。
「日本人が一人でも多く世界に出て、2019年W杯を成功させたい」。思いは一つの成果をも呼び込んだ。6月、日本代表対ウエールズ代表。過去12回対戦して全て負けていた相手に初めて勝利し、「歴史を変えることができた」と涙を流した。
2019年W杯では、「日本の試合を全部満員にしたい」と田中。だからこそ強くありたい。「ここ(ウエールズ戦勝利)がスタート。全員でまとまって、勝ち続けていく」。6年後を見据え、さらなる成長を誓い、楕円球と格闘する日々を送る。=敬称略(昌)
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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第200回 バスケットボール・大神雄子
「これからも海外に飛び出す選手が増えていくように願いも込めて、頭からダイブしてきます」
2013年6月、バスケットボール女子日本代表のエース、大神雄子(30)は昨季までプレーしたWリーグのJX-ENEOSを退団し、海外のリーグに挑戦する意向を短文投稿サイトのツイッターに明らかにした。
1982生まれ、山形市出身。7歳のときから1年間暮らした米国で、男子プロリーグNBAのスーパースターだったマジック・ジョンソンを知り、憧れて競技を始めた。本場のプレーに魅了された少女は、めきめきと力をつけていく。桜花学園高(愛知)では1年からレギュラーとして活躍。2年のときにはインターハイ、国体、ウィンターカップの3冠を達成した。2001年にジャパンエナジーに入社。21歳で2004年アテネ五輪に出場し、2008年には世界最高峰の米プロリーグWNBAのマーキュリーでプレー。萩原美樹子に続く2人目の日本人WNBAプレイヤーとなった。
身長170センチ。この競技では小柄だが、スピードあふれる突破と正確なシュートが持ち味のガードとして日本が10位だった2010年の世界選手権では外国の選手を抑えてトップの1試合平均19・1得点をマーク。昨年は予選であと1勝すれば、2大会ぶりとなる五輪、ロンドン大会出場がかなうところまで行きながら、敗退した。そして、この五輪最終予選での敗退が、大神の気持ちを大きく揺さぶった。「サッカーのなでしこジャパンみたいに、どんどん海外に飛び出して行かないと」―。
大好きなバスケットボールが日本でもっともっと認知されるためには、日本代表が強くならなければならない。来年には世界選手権が控え、3年後にはリオデジャネイロ五輪が待つ。立ち止まっているわけにはいかなかった。五輪最終予選を控えた昨年3月には、疲労骨折した右足甲をボルトで固定する手術を受けた。長年、酷使してきた体は満身創痍の状態だろう。それでも3年後の五輪を目指し、決断するのはいまだった。日本の実力を上げるためには、海外にいくしかない。自らが率先して代表チームに新たな流れを持ち込む以外にない、と―。
海外リーグへの挑戦を明らかにした6月。仙台と東京でモザンビークとの親善試合が行われた。3連勝を飾った日本女子代表。その主将を務めた大神は、会場でリオデジャネイロ五輪出場を誓った。バスケットを始めて以来、持ち続ける情熱はいまだ衰えてはいない。=敬称略(昌)
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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第199回 ボクシング・河野公平
2012年12月31日。引退の危機にあったボクサーが一転、鮮烈なKO勝ちを演じ、王座をつかみ取った。河野公平、32歳。3度目の世界挑戦となった世界ボクシング協会(WBA)スーパーフライ級タイトルマッチでのことだった。
相手は、テーパリット・ゴーキャットジム(タイ)。下馬評は圧倒的に不利。それでも愚直に前に出た。この強気の姿勢が4回、実る。短い左フックが炸裂すると、たまらず崩れ落ちる王者。河野はさらに突進して再びダウンを奪う。そしてロープ際で連打。レフェリーが試合終了を告げた。
「最高にうれしい。本当に努力は裏切らないと信じてやってきて良かった」
1980年11月、東京都目黒区生まれ。ボクシングを始めたのは、陸上部に所属していた高校時代に、「6カ月でプロボクサーになる」という本を読んだことがきっかけだった。ほどなく母親の反対を押し切ってワタナベジムの門をたたいた。2000年11月にプロデビュー。初戦は判定負け。「負けたら辞める」と臨んだ2戦目に勝利して王座へと続く”階段”を上り始めた。
2007年2月に日本スーパーフライ級を、同年10月には東洋太平洋同級王座を獲得した。世界挑戦の機会が訪れたのは翌年9月のことだった。WBAスーパーフライ級王座決定戦。だが、初挑戦は、名城信男に判定で屈した。さらに2年後の2010年9月、世界ボクシング評議会(WBC)同級王座決定戦に挑むも、トマス・ロハス(メキシコ)にやはり判定で敗れた。その後、日本タイトルの奪取に失敗し、プロ3戦目の若手にも敗北を味わった。「毎日のように辞めようかと悩んでいた」。そんな苦しい時期を経て、2012年3月、「負けたら引退するので、最後に世界ランカーと勝負させてください」と直訴した。その後、世界ランカーに勝ったことで、3度目の世界への挑戦が実現した。
テーパリット戦に向けて、短いパンチを磨いた。ダウンを奪った左フックもその成果だった。「狙って打ったというより自然に体の流れで出た」とうなずいた。家族の支えも大きかった。デビュー戦で黒星を喫した後に、ボクシング経験のない父親が自宅で練習できるようにと、リビングに可動式のサンドバッグをつるしてくれた。時間があれば、ミットを手に練習にも付き合ってくれた。「ここまで来られたのは父と母のおかげ」。王座を獲得した河野がこう涙交じりに感謝の言葉を絞り出した理由だった。
5月6日の初防衛戦では再び苦い思いを味わわされた。リボリオ・ソリス(ベネズエラ)にまたも判定負け。「ジャッジが向こうびいきだったと思う。悔しい。(今後については)しばらく何も考えたくない」と唇を引き結んだ。夢を追い続け、ひたむきな努力で引退の瀬戸際から頂点に立ったボクサーは、今回の”危機”に際して、どんな決断をするだろうか-。=敬称略(昌)
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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第198回 陸上・伊東浩司
速報表示に数字にスタジアムがどよめいた。
「9秒99」
1998年12月13日、タイ・バンコクで開かれた第13回アジア競技大会、男子100m準決勝。フィニッシュラインを駆け抜けた伊東浩司は喜びを爆発させ、小躍りを繰り返していた。
アジア人が初めて10秒の壁を破ったか―。興奮が渦巻く中、ほどなくして速報との誤差から公式記録は「10秒00」に訂正。たちまち会場は、ため息に包まれた。
日本記録とアジア記録の保持者となった28歳は「今大会は勝つことが大事なので、14日の決勝に向けて体力温存を図っていた」と語ったのだった。
実は元々、400m主体の選手だった。転機は社会人1年目で迎えた1992年のバルセロナ五輪だ。代表最終選考会の日本選手権400mで5位。1600mリレーのメンバーに滑り込んだが、五輪本番は補欠に回った。東海大時代に腰痛で伸び悩み、五輪出場を機に引退も考えていた。それが出番なしの屈辱の結末。現役続行の腹が固まった。
この五輪で東海大の先輩である高野進が400mで決勝に進出した。当時31歳だった高野がファイナリストになれたのは、遠回りを覚悟で100m、200mでスプリント力を鍛えてきたからだった。それを知った22歳の伊東は翌年から400mを捨て、100mと200mに本格的に取り組み変貌を遂げていく。
伊東の走りの特徴は、足の運びにあった。太ももを高く上げるのではなく、ひざを前に運ぶ。そして、体重移動を限りなく地面と水平にする走法だ。並のランナーなら、上体が反っくり返ってしまうところだが、彼は後背筋と太ももの裏側をじっくり鍛えてきたため、前傾で走ることができた。
トラック練習は1日30分から1時間ほどに抑え、5〜6時間をウェイトトレーニングに費やした。バルセロナ五輪からの6年間で、腰回りは88cmから102cm、太ももも54cmから62cmに。地道な積み重ねが遅咲きのスプリンターを開花させたのだった。
その後、10秒の壁を越えることは叶わなかった。あのゴール直前、翌日のために力を緩めたことで0秒01、距離にしてわずか10cmの差で9秒台に届かなかったまま・・・。「記録は全然、考えていなかった。セーブしなければ、もうちょっといったかもしれないけど」。15年近く日本記録として残る快走には、かすかな苦い思いが残っている。=敬称略(志)
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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第197回 ゴルフ・尾崎将司
「エージシュート」ー。耳慣れない言葉だが、ゴルフ用語で、自分の年齢よりも少ないスコアで回ることを指す。これをプロのトップ選手が集まる日本ツアーで史上初めて達成したのが「ジャンボ尾崎」こと尾崎将司だった。
2013年4月の「つるやオープン」(兵庫県山の原GC)初日のことだった。5番から4連続バーディーを奪い、パー5の17番では全盛期を思わせる飛距離で見事に2オンに成功。そして残り7㍍のイーグルパットを鮮やかに決めた。終わってみれば、コース記録に並ぶ「62」、もちろん単独の首位に立っていた。「(記録のことを)特に考えてないよ。トーナメントで勝つことが目標だから」と笑った尾崎は66歳。4打も余裕を持っての記録達成だった。
1947年1月生まれ、徳島県海部郡宍喰町(現・海陽町)出身。高校時代は野球でその名を轟かせた。徳島県立海南高校(現・海部高校)のエースとして1964年春の甲子園(選抜高校野球大会)に出場し、快進撃を演じた。決勝で尾道商業(広島)を下して初出場初優勝を成し遂げた。翌年、西鉄ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)に入団。だが、プロ野球の世界では芽が出なかった。実働3年で退団し、その後はゴルフ場で働きながらプロゴルファーを目指したという。
1970年にプロテストに合格。挫折を乗り越えて、躍進が始まる。翌年、「日本プロ」で初優勝を飾ったのを皮切りに、わずか3カ月で5勝。明るい性格と身長181cmと恵まれた体格から繰り出される驚異的な飛距離も魅力十分で「ジャンボ」のニックネームがつき、ゴルフ人気を大いに高めた。日本ツアー通算94勝、賞金王12回、メジャー大会20勝は歴代1位。2010年には世界ゴルフ殿堂入りも果たした。だが、年齢を重ねれば、体力も落ちていく。それでも50歳以上の選手だけで競うシニア大会には興味がないのだという。若手と戦いたい―。優勝は2002年が最後。2012年シーズンは1度も決勝ラウンドにすら進めなかった。周囲の選手との年齢差は広がるばかり。だが、それでも諦めない。ひたすらトレーニングに励み、挑戦し続けた。その延長線上に史上初の記録があった。
「つるやオープン」最終日。4日間を終え、結果は通算2アンダーの51位。実に約3年半ぶりとなるアンダーパーだった。「貯金を使い切れなかったよ」と尾崎。その表情には満足そうな笑みが広がっていた。また挑戦を続ける。=敬称略(昌)
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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第196回 フィギュアスケート・山田満知子
いまや世界で最もフィギュアスケートが盛んな地域の一つとして知られる愛知県名古屋市。数多くの名選手を輩出してきたが、名古屋スケート界を語る上で、欠かすことができないのが、山田満知子コーチの存在だ。
名古屋市で生まれ、7歳でフィギュアスケートを始め、女子シングルスで国体やインターハイで優勝したこともある山田だが、当時はスケートへの思い入れはそれほど強いものではなく、大学進学後には現役を引退していた。ところが、愛知県スケート連盟の手伝いを始めたころから状況が変わる。地元の人たちから請われて子供たちの指導を始め、徐々にコーチ業に力を入れることになったのだ。
運命的な出会いが待っていたのは1974年、30代にさしかかったころのことだった。当時の日本スケート界の中心は東京だった。「東京の人たちには負けたくない」との思いを胸に、名古屋市内のスポーツセンターで指導に当たる山田の目に、毎日一人でリンクに来ては熱心に滑っている少女の姿が留まった。当時5歳の伊藤みどりだった。
その才能を見抜いた山田は徐々に伊藤との関わりを深め、ついには伊藤を自宅に引き取り、実の娘同様に公私ともに面倒をみた。そして、世界で初めてトリプルアクセルに成功した女子選手に育て上げ、1992年のアルベールビル冬季五輪では銀メダルを獲得。「東京の人」はおろか、世界中に名を知られるコーチの仲間入りを果たした。
とはいえ、山田は成績を最優先に考えるタイプの指導者ではない。「私の仕事は底辺の拡大」と語り、まずは礼儀やしつけを重視する。それでも、選手の個性をしっかりと把握し、家族がスケートに口を出すのも大歓迎する独特の指導法で、その後も、小岩井久美子、恩田美栄、中野友加里、浅田舞、真央姉妹ら、トップ選手を続々と輩出してきた。現在は2014年ソチ冬季五輪出場を目指す村上佳菜子を指導する。その功績は普及面だけでなく、強化面でも光り輝いている。=敬
称略(昌)
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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第186回 ボクシング・桜井孝雄
2012年夏、ロンドン五輪のミドル級で村田諒太が金メダルを獲得するまで48年間に渡って、日本アマチュアボクシング界で唯一の金メダリストが桜井孝雄だった。日本勢がボクシングに初出場したのは1928年アムステルダム五輪。以来、五輪の頂点に立ったのはこの2人だけだ。
1941年9月25日生まれ、千葉県佐原市(現香取市)出身。佐原一高(現佐原高)でボクシングを始め、全国高校総体を制した桜井だが、競技を始めた理由はちょっと変っている。高校の必修クラブの一つにボクシング部があり、指導者も不在。思うままに練習に取り組める環境が気に入ったのか、ボクシングにのめり込んでいった。そして“自己流”で高校王者にまでなったというのだから、素質と努力は群を抜いていたのだろう。ただ、ボクシングをしていることは最初、両親に隠していたという。実力がついていくに従い、隠しきれなくなって打ち明けるのだが、「学生の間だけ」という約束だったという。それが“唯一の金メダリスト”となり、一生をボクシングとともに歩むようになるとは…。ボクシングとの出会いは、運命的だったと言えるかもしれない。
中大に進学した桜井は大学4年、23歳のときに1964年東京五輪を迎える。20競技が実施された東京五輪で、参加国が最も多かったのが陸上競技。その次がボクシング(10階級実施)の62カ国だった。桜井が出場したバンタム級には32人がエントリー。1回戦、2回戦ともに順調に判定勝ちを収めた桜井は、準々決勝でも右フックや左ストレートが決まり、5-0の判定で快勝。続く準決勝は、優勝候補に挙げられていたロドリゲス(ウルグアイ)との対戦となったが、強打にまかせて押してくるロドリゲスを、冷静に受け流し、軽快なフットワークで攻撃に転じた桜井は、ここでも5-0で勝利を収めた。
迎えた決勝は、鄭申朝(韓国)とのサウスポー同士の対戦となった。第1ラウンドからダウンを奪った桜井はその後も一方的な展開で、4度のダウンを奪ってRSC(レフリー・ストップ・コンテスト)勝ち。「打たせないで打つ」と言われた通り、天才的とも言われた防御を生かした技巧派が頂点に立った瞬間、青コーナーにいた監督の田中宗夫、コーチ、そしてライト級の白鳥金丸らが駆け寄って日本初の金メダルボクサー誕生を祝った。
翌1965年に、「実力を試したい」と三迫ジムからプロデビュー。22連勝後の1968年7月には、世界バンタム級王者ライオネル・ローズ(豪州)に挑戦したが、0-2の判定で敗れた。その後、1969年に東洋王座を獲得。2度の防衛後、1971年に引退。プロ戦績は30勝4KO2敗だった。引退後は少し回り道をしたが、東京・築地でジムを経営。そしてロンドン五輪で日本2人目の金メダルボクサー誕生を見ることなく、2012年1月、70歳でこの世を去った。=敬称略(昌)
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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第185回 野球と小泉信三
慶応義塾塾長を務め、戦後は今上天皇の皇太子時代の教育参与という重責も果たした経済学者であり、教育家の小泉信三が野球殿堂入りしていることを意外に思う向きもあるかと思う。だが、小泉とスポーツとの関わりは濃密で、1922(大正11)年から約10年間も庭球部長を務めるなど、慶応義塾体育会の発展にも力を注いだ。日吉キャンパスの庭球部コート脇には記念碑があり、そこには小泉の「練習ハ不可能ヲ可能ニス」との言葉が刻まれている。
1888(明治21)年5月、慶応義塾塾長や横浜正金銀行支配人などを歴任した小泉信吉の長男として東京市芝区三田に生まれる。慶応義塾普通部を経て1910(明治43)年3月、大学部政治科を卒業し、大学部教員となった。その後、英国、ドイツに留学。その際、学生時代にテニスに親しんでいたこともあってだろう、1913(大正2)年のウィンブルドン選手権を観戦。当時、大会4連覇中だったアンソニー・ワイルディング(ニュージーランド)の著書を日本に送り、テニスを推奨してもいる。
1916(大正5)年3月に帰国し、1920(大正9)年4月に経済学部教授となり、1933(昭和8)年11月に塾長に就任した。以来13年余にわたり塾長として教育等に尽力。スポーツとの関わりでは、1943(昭和18)年10月16日に開催された出陣学徒壮行早慶戦(いわゆる最後の早慶戦)が名高い。戦時下にあって学生野球が中断を余儀なくされる中で、毅然としてスポーツ精神の重要性を説いた小泉は「最後に早稲田ともう一度試合がしたい」という野球部員の要望を快諾し、早稲田大野球部に試合を申し込む。そこには小泉の「学徒出陣に赴かざるを得ない学生等に、せめてもの最後の餞を残したい」という思いが強くあった。依頼を受けた早稲田の飛田穂洲野球部顧問らも思いは同じ。だからこそ渋る大学側との交渉を続けた。しかし、早大総長らは当時の情勢を理由に試合の開催を認めず、難航。直前まで実施が危ぶまれたが、非公式戦という形をとって10月16日に戸塚球場で開催することを決めた。
試合は10-1で早稲田の勝利に終わったが、勝敗は関係なかった。スタンドのどこからともなく始まった「海ゆかば」はやがて大合唱となり、両校の応援歌や校歌も肩を組んで涙を流しながら何度も歌われた。また、試合に際し、特別席への案内を断わり、「私は学生と一緒の方が楽しい」と言って学生席で観戦したという小泉。その姿に “らしさ” が垣間見える。小泉自身、長男を戦争で亡くし、さらに1945(昭和20)年の東京大空襲で、自らも顔面にやけどを負った。1947(昭和22)年に塾長を辞任。1959(昭和34)年11月、文化勲章を授与される。1966(昭和41)年5月、逝去。78才だった。そして1976年に特別表彰として野球殿堂入りを果たすことになる。=敬称略(昌)
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