【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第184回 サッカー女子・宮間あや

2012年 11月 22日

 「永遠のサッカー少女」―。こう呼ばれる選手がいる。サッカー女子日本代表・なでしこジャパンを牽引してきた澤穂希から主将のバトンを引き継いだ司令塔、宮間あやだ。2012年夏のロンドン五輪では、4年前の北京五輪でメダルを逃した悔しさを糧にチームを引っ張り、新たな歴史を刻んだ。
 五輪で日本女子初となるメダルを確定させた準決勝フランス戦。2得点を演出したのは宮間だった。勝利を告げる試合終了のホイッスルが、サッカーの聖地といわれるウェンブリー競技場に響くと、思わず涙がこぼれ落ちた。「人からモノを言われるのが大嫌い」「人と違うことを求める」と天の邪鬼を公言する宮間の瞳からこぼれた涙には、「サッカー少女」ならではの理由があった。4位に終わった北京から4年、「一緒に泣いて、一緒に笑ってきた仲間とピッチに立てていること、もう一度(決勝の舞台に)立てることがうれしい」。周りを思いやる、こうした姿勢がチームから絶大な信頼を寄せられる源でもある。気配りはともにピッチに立ったライバルたちにも及ぶ。フランス戦後、宮間は敗戦に打ちひしがれるフランス選手に歩み寄り、肩を抱いて健闘をたたえた。
 1985年1月、生まれ。千葉県大網白里町出身。同町立白里中学を経て県立幕張総合高校卒。小学6年の時には中学1年の男子チームのメンバーとして大会に出場。その後、日テレに進むが、自宅から練習場までが遠く、高校2年で退団し、ただ一人の女子部員として高校の男子サッカー部入りした。ただ男子チームに女子を登録することが認められておらず、そのままでは公式戦に出られないこともあって、岡山湯郷ベルの第1期生として入団。サッカーが好きでたまらないからこそ、活躍の場を切り開いていった。所属する岡山湯郷ベルとプロ契約する前には、岡山県美作市の旅館でふろ掃除のアルバイトもこなしたほどだ。2009年には米国のプロチームに移籍。2010年9月に岡山湯郷に復帰するまで、欧米の一流選手と交流を重ね、技を磨いた。正確無比なパスやフリーキック、視野の広さと中盤ならどこでもこなせる器用さは、そうした努力と経験を経て磨かれたものだ。
 磨かれた持ち味は、なでしこが頂点に立った2011年W杯ドイツ大会でも何度も好機を演出し、ロンドン五輪でも光を放った。五輪決勝は、前年W杯と同じ米国との対戦。1-2で敗れはしたが、後半18分のゴールを生む起点となったのは宮間だった。
 高校2年まで在籍した日テレでは、誰よりも遅くまで残ってボールを追っていたという。その姿は27歳で迎えたロンドン五輪でも変わらなかった。ボールを追う場所が、どこであろうが、サッカーができる喜びに変わりはない。だから、米国に敗れて銀メダルを首に掛けたときも、弾けるように笑えた。今後も納得がいくまでボールを追い続けていく。=敬称略(昌)

(提供 日本トップリーグ連携機構)

【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第183回 野球・橋戸信

2012年 11月 15日

 都市対抗野球大会の最高殊勲選手に贈られる橋戸賞。チームが各都市を本拠地とする米大リーグに着目して1927年に同大会を創設し、その発展に貢献したのが「賞」にその名を残す橋戸信だった。
 1879(明治12)年3月生まれ、東京都出身。青山学院中学でエース。卒業後の1901(明治34)年に東京専門学校(翌年、早稲田大と改称)に入学した。早大ではこの年の11月に野球部が創部され、しばらくして橋戸が入部する。野球部初代部長の安部磯雄教授の説得によってともいわれるが、創成期の野球部を牽引した1人だ。1903年、橋戸は他の部員2人とともに、慶応義塾大野球部寮に赴き、「挑戦状」を差し出す。この挑戦状に、慶大が応える形で実現したのが早慶戦で、記念すべき第1回は同年11月に開催された。いまに続く早慶戦のきっかけとなった挑戦状を書いたのが橋戸だったと言われている。
 当時、野球部を創部したばかりの早大に対し、慶大は当時最強だった第一高等学校(現・東京大)に次ぐ位置づけで、いわば先輩格。結果も11-9で慶大の勝利に終わる。いまでは考えられないが、この試合を報じたのは時事新報(現・産経新聞)と万朝報(廃刊)の2紙だけで、いずれも小さい扱いだった。だが、翌年6月に早大、慶大が立て続けに一高に勝利すると、俄然、注目を集めるようになっていく。ちなみに第2回早慶戦(1904年6月)は早大が13-7で雪辱を果たした。
 早大は1905年4月4日から6月29日の日程で米国遠征を挙行。第1回早慶戦からこの初の渡米遠征まで主将で名遊撃手としてならしたのが橋戸でもあった。遠征後、橋戸は野球の母国で得た数々の新しい技術を「最近野球術」としてまとめ、刊行。「頑鉄」というペンネームで独特の野球批評を展開する。1907(明治40)年に大学を卒業すると、渡米して数年を過ごし、帰国後、萬朝報を経て1916年(大正5年)、大阪朝日新聞社に入社。全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)にも関わった。その後、東京日日新聞(現・毎日新聞)に入り、ここで米大リーグではすでに定着していた各都市を本拠地とするフランチャイズ制を日本にも持ち込み、都市の代表チームが競い合う大会を創設。1927(昭和2)年に都市対抗野球大会として開催にこぎ着けた。
 都市対抗野球が記念の第10回大会を迎える1936年の3月に急逝。その功績をしのんで、その大会から「橋戸賞」が設けられた。1959(昭和34)年、師でもあった安部磯雄らとともに特別表彰で第1回の野球殿堂入り。文壇とも交遊が深かったという橋戸は里見弴、久米正雄ら野球好きの文人らが結成に関わった「鎌倉老童軍」を応援。同チームは都市対抗にも出場し、話題となったという。=敬称略(昌)


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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第182回 陸上三段跳び、五輪選手団長・大島鎌吉

2012年 11月 8日

 競技者としては金メダリストの影に隠れてしまった感があるが、その後のスポーツ界への貢献は絶大だった。1932年ロサンゼルス五輪男子三段跳びで銅メダルを獲得し、日本選手団主将として臨んだ1936年ベルリン五輪でも6位入賞を果たした大島鎌吉。ロサンゼルスで南部忠平が、ベルリンでは田島直人が金メダルに輝いた三段跳びにあって、「三段跳びは日本のお家芸」と言われた絶頂期を築いた1人であるばかりでなく、1964年東京五輪では日本選手団団長として選手たちの活躍を支えた。
 1908年11月生まれ、石川県金沢市出身。金沢商業から関西大学へ進み、在学中にロサンゼルス五輪に出場。金メダルを獲得した南部は、当時の世界記録(7m98cm)を持っていた走り幅跳び(銅メダル)が専門で、三段跳びでは大島に金メダルの期待がかかっていた。だが、アクシデントに見舞われる。大会直前に風呂で大やけどを負ってしまい、万全とは程遠い状態で本番に臨まざるを得なかった。1934年に大学を卒業後、毎日新聞社入社。その年の日米対抗陸上で15m82cmの世界記録(当時)をマーク。実績からみてもベルリン五輪でのメダル獲得が有望視されたが、ここでも金メダルに輝いたのは走り幅跳びが専門の田島で、大島はメダルに届かなかった。競技者としてはいささか華やかさに欠ける面はある。だが、その才が花開く舞台は後に用意されていた。
 毎日新聞社では運動部記者として活躍。その後も日本体協理事や大阪体育大副学長、名誉教授などを歴任するが、何と言っても持てる力を遺憾なく発揮した舞台は、1964年東京五輪だった。開催国としてメダル量産を期し、1960年に東京五輪選手強化対策本部が設置されると、1960年度から64年度までの5カ年計画が立てられた。綿密に練られた計画を遂行する旗振り役を担ったのが大島だった。選手強化対策本部長の田畑政治を、副本部長として支え、計画を予定通りに実施いていく。同本部が5年間に使った経費は約20億6000万円余。東京五輪開幕まで残り2年となった頃からは同本部の責任者らが国会に呼ばれ、説明を求められることも度々だったという。国を挙げて東京五輪を成功させようという“意気込み”の表れでもあったが、単刀直入な質問も浴びせられた。「金メダルはいくつ取れるのか」。ちなみに1956年メルボルン、60年ローマ五輪での金メダル数はともに4個。ここで田畑に代わって同本部長に就任していた大島はきっぱりと答えた。「金メダル15個を獲得します」―。
 大島選手団長以下、役員、選手計437人で臨んだ東京五輪は10月10日、「世界中の秋晴れを集めたような、きょうの東京の青空です…」(NHK実況)という快晴の下で開幕。各競技で連日のように日本選手が活躍し、”公約” を上回る金16、銀5、銅8個のメダルを獲得し、大成功のうちに閉幕した。大会後の報告書に、大島はこう記す。「順調にいけば金メダル18~23個を手にできると勘定していた。だが、五輪。不測の事態は至るところに待ち構えている。まずは15個……こうして確信をもって戦いに臨んだのであった」。無謀とも思えた「金15個」は勝算があっての数字だった。=敬称略(昌)

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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第181回 なでしこジャパン・沢穂希

2012年 10月 26日

 「やりきりましたし、走りきりました」。こう語った沢穂希の表情に笑みが広がった。2012年8月、ロンドン五輪サッカー女子決勝。米国と対戦した日本代表・なでしこジャパンは1-2で惜しくも敗れた。前年のワールドカップ(W杯)からの連覇はならなかったが、言葉通り、納得のいくゲームだった。
 サッカーの聖地、ウェンブリー競技場が沢にとって集大成の地となった。1986年、東京都府中市府中第六小学校の校庭で、男子に交じってボールを追いかけ始めたのは小学2年のとき、兄の後を追ってのことだった。週5日の練習に週末は遠征。ひたむきな努力で、才能は開花していった。女子選手はほとんどいない時代。小学5年で迎えた全国大会では、前例がないとして出場が認められなかった。まだ時代が沢に追いついていなかった。だが、それでもサッカーを諦めなかった。
 15歳で代表デビュー。五輪には1996年アトランタ大会で初出場し、以降、代表チームを牽引し続けてきた。「苦しいときは、私の背中を見て」。ベスト4進出を果たした2008年北京五輪のときには、こう言ってチームを鼓舞した。
 五輪の重み、勝つことの意味を誰よりも知る。2000年シドニー五輪では出場権を逃したことで、女子サッカーは低迷。女子サッカー人気を、そして競技環境を整えるためには勝つことが何よりも必要だった。その思いが結実したのが2011年W杯ドイツ大会。決勝はロンドン五輪と同じく米国が相手だった。延長後半12分、1-2から貴重な同点ゴールを決めた沢。この同点弾で2-2とし、PK戦を制して初優勝を果たした。このドイツ大会で沢は5得点を挙げ、得点王とMVPを獲得。翌年1月にはFIFA女子最優秀選手にも輝いた。
 ただ、W杯後の「なでしこブーム」のすさまじさは、強靱な沢のメンタルをも揺さぶった。ストレスが原因のめまい症に見舞われ、一時は戦線離脱。世界の頂点を見せてくれた「サッカーの神様」が五輪イヤーに与えた試練となったが、しっかりと乗り越えて見せた。
 1978年9月生まれ。府中のグラウンドで、夢中になってボールを追い掛け始めてから26年。ロンドン五輪決勝を終え、「最高の舞台で、最高の仲間とともに、最高の相手と戦えるのは今までになかった」と語った沢は「金メダルが欲しかったが、チーム全員でやりきった結果。悔いはない」とうなずいた。=敬称略(昌)


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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第180回 プロ野球・金本知憲

2012年 10月 16日

 「鉄人」と呼ばれたプロ野球選手が2012年シーズンを最後に、ユニホームを脱いだ。1492試合連続フルイニング出場の世界記録を打ち立てた阪神の外野手、金本知憲。引退試合となった今季最終戦、10月9日のDeNA戦では全盛期の定位置だった「4番・左翼」で出場し、4打数1安打。そして九回2死、最後の打者の飛球は、この日の主役である金本のグラブに収まった。「まさかのまさか。簡単な打球で良かったよ」。表情には茶目っけのある笑みが浮かんだ。
 長嶋茂雄(巨人)にあと「1」と迫っていた打点を挙げることはできなかったが、44歳の果敢な走塁が超満員の甲子園球場を沸かせた。六回に中前打を放つと、初球にすかさず二盗を決め、盗塁のセ・リーグ最年長記録を更新。「後輩に教えられることがあるとすれば、常に全力でプレーすること」と語り、プロ野球記録の1002打席連続無併殺を誇りとする金本らしい姿だった。
 1968年4月3日生まれ、広島県出身。広島・広陵高から東北福祉大をへて、92年にドラフト4位で広島に入団した。身長180cmで、体重は78kg。プロ野球選手としては細身で、即戦力として期待された“エリート”ではなかった。自らも「(入団後)最初の3年間はずっと2軍で、練習にもついていけず、いつクビになるかときつかった」と振り返る。だが、「努力の天才だった」(当時の広島守備走塁コーチの高代延博氏)。徹底した筋力トレーニングで肉体を鍛え上げ、無理をして食事を口に運ぶことで、”筋肉の鎧”に覆われた90kg近い体を作り上げていった。当時、まだ少なかった給料の中から、トレーニングジムに通う費用を捻出し、午前中にジムで筋トレをしてから、球場で特打ちをする日々。打撃練習ではあまりの練習量に、打撃投手の制球が乱れ、金本の体にしばしば球が当たったほどだったという。1999年4月24日にはサイクル安打を達成。リーグを代表する強打者へと成長し、フリーエージェントで2003年に阪神へ移籍すると、2004年に打点王、05年には最優秀選手にも輝いた。
 だが、故障には勝てなかった。「本当ならグラウンドに立つことも不可能だった」と話す右肩の故障と戦い続けたこの3年間は「悔しいし、情けなかった」という。試合のない月曜日はリハビリに努め、調子が落ち込めば、休日返上でバットを振った。そんな努力の人は後輩に対し「もっと(バットを)振っておけば…という悔いは残してほしくない」と訴える。だから自身が最も誇りとするのは「(1002打席)連続無併殺記録。打率が下がるところで全力で走って、ゲッツーにならなかった。内野安打にならないところで全力プレーし、フルイニング記録よりも誇りに思う」。自らの姿勢を通して「(困難に)立ち向かっていくことはアピールできた」と唇を弾き結んだ鉄人は、「10歳から(野球を)始めて、7割8割はしんどいことで、2割3割の喜びや充実感しかなかったが、でもその2割3割を追い続けて、7割8割を苦しむ。そんな野球人生でした」と結んだ。=敬称略(昌)

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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第179回 競泳・北島康介

2012年 10月 6日

 日本中の期待を一身に背負いながら、あっさりと結果を出した。2008年北京五輪。北島康介は男子平泳ぎで日本競泳界初となる2大会連続2冠を達成し、新たな高みに上った。その輝きは他の追随を許すことはなかった。
 04年アテネ五輪の男子平泳ぎ2種目で金メダルを獲得。五輪王者として北京を迎えた北島だったが、「追われる立場」のプレッシャーをものともせずに男子100m平泳ぎを58秒91の世界新記録で制した。そして迎えた200m決勝。もはやライバルはいなかった。水の抵抗を極限まで減らし、ぐいぐいと伸びる大きな泳ぎで他の選手を引き離す。終わってみれば、五輪新記録の2分7秒64で2位に1秒以上の差をつけての圧勝。「自分一人でここまでは来られなかった。この喜びを皆さんと分かち合いたい」。勝利の余韻をかみしめた。
 「ぼくは水泳をならっている。速くなろうとしている。そして、大きな夢ももっている。それは速くなって、国際大会でメダルを取り、日本の代表選手に選ばれて、オリンピックに出ることだ」。小学校の卒業文集にそう記した北島は、五輪とともに飛躍を続けてきた。17歳で2000年シドニー五輪に初出場し、100m平泳ぎで4位に。五輪出場という夢を実現させたが、満足することはなく、「どんな大会よりも特別」と五輪への思いをそれまで以上に強くした。
 さらなるレベルアップを目指し、「チーム北島」と呼ばれる動作解析や肉体改造の専門家らのサポートを得ながら、練習に取り組む日々。そして02年の釜山アジア大会の200m平泳ぎで、日本選手として30年ぶりとなる五輪種目での世界記録更新を成し遂げるなど、着実に進化を続け、アテネ、そして北京の結果につなげた。
 北京五輪後、プールから距離を置いた時期もあったが、09年6月ごろから拠点を米国に移して練習を再開し、12年ロンドン五輪にも出場。個人種目でのメダル獲得はならなかったが、400mメドレーリレーで存在感を示す。チームメートが「康介さんを手ぶらで帰すわけにはいかない」と発奮して2位に入り、この種目で3大会連続のメダルを獲得した。
 北島にあこがれ、そして目標にしてきた子供たちも育ってきている。今年9月に200m平泳ぎで2分7秒01の世界新記録をマークした高校生、山口観弘は小学生だったころ、北島のポスターに「おまえをぬかす」と書き込んだという。北島が日本水泳界に与えた影響は計り知れない。敬称略=(謙)

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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第178回 柔道・吉田秀彦

2012年 9月 27日

 得意の内股は相手がいくら警戒しようと関係なかった。バルセロナ五輪柔道78kg級決勝。十分な組み手から左足を跳ね上げると、米国選手の体は軽々と宙を舞った。
 日本勢ではロサンゼルス五輪の山下泰裕以来となる史上4人目の全試合(6試合)一本勝ち。圧倒的な技の切れで世界一となった吉田秀彦は両拳を天に突き上げ、涙にくれた。「これは現実なのか」。それまでの逆境を振り返ると、とても信じられなかった。
 22歳の新鋭は初めて五輪代表に選出された後、5月末の試合で左足首を捻挫してしまう。直前の強化合宿ではほとんど本格的な練習ができず、上半身の筋力トレーニングなどに専念せざるを得なかった。吉村和郎コーチが「怪我だけでなく、内臓を壊したこともあった。二重のショックでね。五輪に出られるか不安になった」と言う程のどん底をさまよった。
 吉田を苦しめたのは自身の怪我だけではなかった。もう一つは敬愛する先輩・古賀稔彦の怪我である。
 現地入りした吉田は五輪本番を10日後に控え、古賀と稽古していた。コーチ陣には、調整が遅れている吉田の気力を上向かせようとの目論見があったのだが、その最中、古賀が左膝を痛めてしまう。「ポックンという靱帯が切れる音がしたんです」と吉田。凍り付くような嫌な音は、畳に倒れ込んだ古賀の悲鳴とともに耳の奥にこびりついた。
 吉田は中学3年の春、愛知・大府市から東京の柔道私塾「講堂学舎」に飛び込んだ。そこに2学年上の古賀がいた。以来、付き人に付き、同部屋で過ごし、文字通り寝食を共にしてきた仲だった。
 信頼し合う者同士だからこそ、激しい稽古となり、起きてしまったアクシデント。とはいえ、金メダル確実と言われた“日本のエース”が、満足に歩くことさえできない危機に立たされたことは紛れもない事実だった。口さがない外野の非難は、すぐ人づてに聞こえてきた。
 「すみません」と頭を下げる吉田を、古賀は「気にするな」と励ました。重苦しい負い目の中で、一本気な吉田は自身にノルマを課す。「金メダル獲得」。続いて出場する古賀に弾みがつけば、と考えてのことだった。そして、集中力を研ぎ澄まし、見事、金メダルを掴んでみせた。
 「早く古賀先輩に『勝ちました』と報告したい」
 試合後、絞り出した声には、苦悩の大きさがにじんでいた。=敬称略(志)

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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第177回 レスリング・小原日登美

2012年 9月 21日

 日の丸を背に大きく掲げ、あふれる涙をそのままに、スタンドの声援に応えた。2012年ロンドン五輪レスリング女子48kg級。31歳の小原(旧姓・坂本)日登美は「勝っても負けても引退」と決めて臨んだ初の五輪を、優勝という最高の結末で飾った。
 51kg級時代を含めて世界選手権を8度も制しているベテランだが、五輪の舞台とは縁遠かった。レスリング女子が正式種目に決まったのは2001年。その前年の2000年と01年の世界選手権で51kg級を2連覇した小原は、五輪を見据えて悩んだ。採用されたのが48、55、63、72kg級の4階級だったからだ。48kg級に落とせば妹の真喜子がいる。55kg級を選ばざるを得なかった。02年の全日本選手権。女王・吉田沙保里に挑んだ。どこまで迫れるか…思いは無残にも打ち砕かれた。完敗、あっという間のフォール負けだった。落ち込んだ気持ちを引きずったまま帰郷。いつしか自宅に引き籠もり、うつ病に。過食で体重も70kgを超えた。
 青森県八戸市出身。小学3年で競技を始め、高校3年で全国大会に優勝。中京女子大(現・至学館大)2年のときには世界選手権51kg級を制した。頂点を知るからこそ、“闇”もまた濃く深かった。「強くない自分には価値はない」。どうしてもこの思いが脳裏を離れない。そんな小原を家族は支えた。母は仕事を休み、付き添った。父も睡眠時間を削ってジョギングなどに連れ出した。徐々に平静さを取り戻し、再起を果たす。そして07年に再び55kg級に挑戦。だが、このときも壁を破ることはできなかった。北京五輪出場の夢は潰え、08年に再び引退。コーチとして妹を支えた。だが、妹も五輪に出場できずに引退を決意。このとき「お姉ちゃんに(五輪への)夢を引き継いで欲しい」と訴えかけられ、09年12月に再び現役に復帰した。選んだのは48kg級だった。翌10年と11年の世界選手権を48kg級で2連覇し、満を持して挑んだ五輪、それがロンドンだった。
 気迫に満ちた表情で初戦から勝ち上がっていく小原。スタンドには、苦しいときを支えてくれた両親、妹の真喜子、そして10年に結婚した元選手でもある夫の姿があった。そして迎えた決勝。相手は北京銅メダルのマリア・スタドニク(アゼルバイジャン)。第1ピリオドは、開始20秒でいきなり1ポイントを奪われ、1分40秒にはローリングなどで3ポイントを取られ落とす。しかし、第2ピリオドを取ってタイに持ち込むと、第3ピリオドは、17秒に足を取って場外に出し1ポイント。48秒にはバックに回り1ポイントを追加し、そのまま逃げ切った。勝利の瞬間、小原は両手を天に突き上げた。両ひざをつき、マットを叩いて歓喜した。涙が自然とあふれ出ていた。まさにどん底をくぐり抜けてつかんだ悲願の金メダルだった。
 試合後、改めて引退を表明した小原。今後を尋ねられると、「家族や主人に支えられ、これまで主婦業をサボっていた。主人にご飯をつくってあげたい。妹とは“ママ友”になりたい」と語った。そのはにかんだ笑顔には、長かった挑戦の日々を終え、ホッとしたような思いものぞいていた。=敬称略(昌)


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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第28回 柔道・嘉納治五郎

2011年 10月 12日

 戦後、日本復興の原動力となった昭和39年の東京五輪。日本は2度の冬季五輪を含めてこれまで3度五輪開催地を務め、アジアにおけるオリンピック・ムーブメントの先駆けとなった。遡ること約70年、“幻”の東京五輪(昭和25年)の招致の立役者となったのが、アジア初の国際オリンピック委員会(IOC)委員、嘉納治五郎である。
 嘉納は明治15年、講道館を設立し、柔道の普及に努めた。その後、筑波大の前身、東京高等師範学校長や大日本体育協会の初代会長を歴任し、「日本体育の父」と呼ばれる。多忙を極めた嘉納に42年、新しい肩書きが加わった。近代オリンピックの父、クーベルタン男爵の意を受けてIOC委員に就任。教育者としての嘉納は五輪の理念は講道館柔道の理念にも通じる、との思いから「アジア初」の五輪開催に後年を捧げた。
 日本は、昭和7年のIOC総会で五輪開催地に立候補した。8年後は「日本書紀」の皇紀で2600年に当たる節目の年で、記念イベントの目玉として、東京開催を目指したのだ。そのときのライバルはローマとヘルシンキ。説得の結果、ローマは辞退し、11年のIOC総会でヘルシンキも退け、東京開催が決定した。「アジア開催によって五輪を欧米だけでなく、世界のものにすべきだ」「日本ほど熱心に大会に参加している国は世界中でも少ない」という嘉納の招致演説は、日本開催に大きく貢献した。
 だが、日本に「国際情勢」というもう一つの敵が立ちはだかった。満州国建国の承認をめぐって国際連盟から脱退していた日本への批判は、12年の廬溝橋事件で最高潮に達した。11年のベルリン五輪で「スポーツと政治」が一体となった現実もあり、国際世論は日本開催返上へ傾いていった。
 そんな中、13年3月にカイロで開かれたIOC総会で日本の五輪開催の是非が問われたが、嘉納は日本開催と各国参加を繰り返し主張し、最終的には日本開催が認められた。とはいえ、各国の日本開催批判は相当のものだったようだ。「今度の会議はいかだに乗っているような気持ちだった。突き飛ばして来る人もあれば、足を持って引きずり落とそうとする者がいる。我々は水中に落ちないように頑張って、やっと対岸にたどり着けた」。嘉納はこのときの苦労をこう語っている。
 しかし、嘉納の帰国を待ち望んでいた関係者らが嘉納の肉声で吉報を聞くことは叶わなかった。同年5月、嘉納はカイロからの帰路の氷川丸船中で急死した。その2カ月後、日本は戦争激化により開催を返上。嘉納がまさに命を懸けた東京五輪の夢は消えた。
 しかし、嘉納の思いは“幻”から24年後の東京五輪で結実する。嘉納が普及に尽力した柔道も東京から正式競技になった。
 今夏の北京五輪は東京、ソウルに続き、アジアで3回目の夏季五輪となる。今年は嘉納没後70年でもある。敬称略=(有)


(提供 日本トップリーグ連携機構)

【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第27回 卓球・荻村伊智朗

2011年 9月 19日

 卓球選手として、またコーチとしても輝かしい実績を積み上げた荻村伊智朗。しかし、荻村の才能は国際卓球連盟会長や日本オリンピック委員会(JOC)の国際委員長としての活動でさらに輝きを増した。
 都立西高校時代に卓球を始め、めきめきと頭角を現した荻村。1954(昭和29)年、ロンドンで開かれた卓球世界選手権で初優勝を飾るなど、日本のエースとして活躍した。世界選手権で12回、アジア選手権で8回、日本選手権では11回優勝しながら、現役時代からコーチも兼任し、世界チャンピオンを10人以上も育てる“優勝請負人”としての手腕も発揮した。
 1970(昭和45)年には日本卓球協会常任理事として、翌71年の名古屋での世界選手権に中国を復帰させようと奔走。70年に3度訪中し、当時の周恩来首相とも2回会談。結果、中国チームは世界選手権に復帰を果たし、米中国交回復にも結びつくなど「ピンポン外交」の立役者ともなった。
 もうひとつ国際的な貢献を果たしたのが、1991(平成3)年の世界選手権(千葉市)。1987(昭和62)年に世界卓球連盟会長に就任以来、韓国と北朝鮮の南北統一チーム結成は荻村の悲願だった。韓国に20回、北朝鮮に14回も足を運び、交渉を進めた。オランダでの連盟三役会で6人の大陸担当副会長から同意を取り付ける一方で、国内の関係者に統一チームの練習場所や合宿地の準備など、受け入れ体制にも余念がなかった。スポーツ界では初の統一チームとなった「コリア」が来日し、世界選手権決勝では女子団体が中国チームを下して優勝を果たした。「オギムラがいなかったら、これほどスムーズには進まなかった」とは、両国関係者の一致した荻村評だ。
 スポーツ界きっての国際派だった“ピンポン外交官”の功績は、「卓球で世界をつなぐ」という言葉通り、スポーツを通じて世界平和に貢献できることを示したことだろう。長野五輪でもその人脈をフルに生かし、日本に3度目の五輪開催を呼び込んだ。来年の2016年五輪開催地決定に向けて、東京五輪の招致活動も本格化する。荻村の精神が再び、注目される。=敬称略(有)

(提供 日本トップリーグ連携機構)