【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第26回 野球・石井藤吉郎「野球は楽しむもの」

2011年 8月 31日

 「寒いから、きょうは練習をやめよう」。昭和39年2月、東京六大学で6季連続Bクラスにあえいでいた母校・早大野球部の再建を任された石井藤吉郎は、選手との初対面の場でこう言い放った。その後の練習でも「やりたいポジションがあれば、やればいい。野球は楽しむもんだ」―。
 猛練習に明け暮れながら結果を出せず、ガチガチに委縮し、苦しんでいた選手たちはどんなに救われ、気持ちを和らげたことか、「野球は楽しむもの」。忘れかけていた原点に立ち戻ったチームはよみがえった。こうして同郷の大先輩、飛田穂洲に懇請されて監督に就任した石井は、個性を伸ばす抜群の人心掌握術で就任早々に母校を優勝に導く。
 「僕は選手を枠にはめることが嫌い。短所を指摘するより長所を伸ばす方が、本人にもチームにもどんなにプラスになることか」
 豊臣秀吉の幼名と同じことから、ニックネームは「関白」。5歳のときに母親を結核で失うが、その母の“遺言”がその後の人生を決定づけた。療養先近くには水戸商のグラウンド。そこで白球を追う球児たちを見て、母は「関白がここで野球をやる姿を見たい」と言い残して他界した。成長の過程でその思いを聞かされた石井は、水戸商、そして早大へと進み、野球人生を歩んでいく。
 だが選手生活には戦争が影を落とした。水戸商時代は身長181センチの全国屈指の大型左腕投手として注目を集めたが、甲子園出場は“幻の大会”と呼ばれる昭和17年夏の1回だけ。なぜ「幻」と呼ばれたか。戦争の影響で前年に「全国的な運動競技」の開催中止命令が出され、昭和16年の全国中等野球大会(現高校野球)は中止に追い込まれた。ところが、翌17年、士気高揚を目的に従来の新聞社主催でなく、文部省主催として行われたために大会史には残っていない。この大会で石井は、優勝した徳島商と準々決勝で対戦し、0-1と惜敗したのだが、その約2カ月後の10月、当時ならではエピソードといえるが、国体にあたる競技会の手榴弾投げの部に出場し、優勝を果たしている。
 翌年、早大に進学したがすぐに応召、敗戦、そして2年間のシベリア抑留…。復員後、早大に復学し、主砲として前年最下位だったチームをここでも優勝へと導いた。昭和25年には主将として春秋連覇、春には首位打者を獲得。卒業後は大昭和製紙に入社し、都市対抗野球でも全国制覇を遂げた。早大卒業時や社会人時代にプロ球団から誘いを受けたが、アマチュア野球一筋に歩み、平成7年に野球殿堂入り。その人懐っこい笑顔、明るく飾らない人柄はまさに豪放磊落。教え子からは「オヤジさん」と慕われ、10年間に渡る早大監督時代の教え子たちは、藤吉郎の名前にちなんだ「藤球会」を作り、毎年12月、石井が家業とした茨城・大洗のホテルに集まり、「オヤジ」を囲み続けた。=敬称略(昌)

(提供 日本トップリーグ連携機構)

【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第25回 陸上・円谷幸吉

2011年 8月 3日

 メキシコ五輪を9カ月後に控えた1968年1月9日、埼玉県朝霞市の自衛隊体育学校の宿舎で、1人の男性が自殺した。男性の名は円谷幸吉。1964年東京五輪のマラソンで銅メダルを獲得した国民的英雄の死は、社会に大きな衝撃を与え、選手の指導育成態勢を含めた五輪への取り組み方を見直すべきとの議論までを巻き起こした。
 初の日本開催で国中が夢中になった東京五輪。最終競技のマラソンに出場した円谷は2位で国立競技場に戻ってきたが、最後にヒートリー(英国)に抜かれ、3位に終わった。それでも、陸上競技が五輪でメダルを獲得したのは1936年ベルリン大会以来、28年ぶり。一躍時の人となった円谷は、次の目標をメキシコ五輪での金メダル獲得に定めた。
 だが、その後は不幸が次々と円谷に襲いかかった。1966年には信頼を寄せていたコーチも配置転換で、円谷のそばを離れ、予定されていた結婚も破談に。翌年には持病の椎間板ヘルニアに加え、アキレス腱切断の故障も起き、8月に手術。3カ月の入院生活を経てトレーニングを再開したが、体が元に戻ることはなく、「メキシコで金メダルを」との目標は遠のいた。

  「父上様、母上様 三日とろろ美味しゅうございました。
  干し柿、もちも美味しゅうございました 。
  幸吉はもうすっかり疲れ切って走れません 。
  何卒お許し下さい。
  気が休まる事もなく、 御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。
  幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。
  メキシコオリンピックの御成功を祈り上げます。」

 死に際し、円谷はそう書き遺した(一部抜粋)。真面目で人一倍責任感が強い性格が、遺書から読み取れる。自殺の原因についてはノイローゼ説など、様々な解釈がなされたが、三島由紀夫は産経新聞1968年1月13日付夕刊への寄稿で、「円谷選手の死のような崇高な死を、ノイローゼなどという言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きている人間の思い上りの醜さは許しがたい」とした上で、「自尊心による自殺」(「円谷二尉の自刃」産経新聞1月13日夕刊)と唱えた。
 円谷の故郷である福島県須賀川市では、1982年から円谷幸吉メモリアルマラソン大会を開催している。第2の円谷誕生の願いを込めて。=敬称略(謙)

 

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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第24回 陸上・村社講平、感動を呼んだ果敢な走り

2011年 7月 6日

 圧倒的に強い相手に対し、たとえかなわなくとも果敢に立ち向かっていく姿は、見るものの心を動かす。1936年ベルリン五輪一万メートル決勝は、まさにそうした思いを抱かせるレースだった。
 31人が参加して行われた決勝の“主役”は、優勝者ではなく、敗者となった村社講平。正々堂々、自らの走りに徹し、果敢に戦いを挑んだからこその評価だった。
 身長160センチ余り、体重50キロの村社はスタート直後、200メートル付近でトップに立った。その村社を3人の男が囲む。フィンランドのイソホロ、アスコラ、サルミネン。この段階でその後の激しいでデットヒートを予想したものはいなかっただろう。それほどに当時のフィンランドは長距離王国として君臨しており、また村社は無名だった。だが、予想に反して190センチ前後の大男たちを引き連れるようにして、村社は懸命にトップを走り続ける。たとえ抜かれてもすぐに抜き返し、先頭を譲らない。この走りに12万人の観衆からは「ムラコソ、ムラコソ」の声援が沸き起こった。ラスト1周で力尽き、結果は4位。それから5日後の五千メートルでも途中から先頭に立ったが、最後にかわされて4位に終わる。だが、「ムラコソの走りは勝利にもまさる」と絶賛を浴びたのだった。
 1905年(明治38年)宮崎市生まれ。宮崎中学(現宮崎大宮高)時代は、日本初の五輪メダリストの熊谷一弥を先輩にいただくテニス部員。それが、6キロの全校ロードレースで優勝したことが、その後の人生を変えた。
 中学卒業後は県立図書館に勤務。図書館就職前には2年近く兵営生活も送ったが、図書館勤務時代も通してスパイクを手放したことはなかったという。だが、自信をもって臨んだ32年ロサンゼルス五輪代表最終予選で、学生に敗れ、「少なく共 伯林(ベルリン)大会を目指すならば学生選手たることを痛感」(中央公論 昭和11年11月号)した村社は、中央大からの誘いを受け入れて27歳で進学。1人切りの独学に、組織的な練習が加味され、素質はさらに磨かれていった。ただ集団のペースに合わせて走ることは苦手だったという。序盤から飛び出し、先頭でレースを引っ張る村社の走りは、本格的に陸上を初めて以来続いた“孤独な練習”の名残だったのかもしれない。
 ベルリン五輪を活写し、屈指の傑作といわれる記録映画「オリンピア(第1部・民族の祭典、第2部・美の祭典)」で、この一万メートルの熱戦は村社が最後に力尽きるシーンと大観衆の声援が象徴的に描かれており、いかに村社の走りが見るものの心を揺さぶったかが分かる。=敬称略(昌)

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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第23回 ラジオ体操

2011年 6月 29日

 現在も多くの愛好者に親しまれているラジオ体操が初めて愛宕山にあった日本放送協会(NHK)・東京中央放送局から電波に乗ったのは昭和3(1928)年。郵政省の前身、逓信省簡易保険局が中心となり、国民の健康増進を目的に提唱した。もともとのお手本は米国で、日本で始まる3年前、保険会社が事業の一環として放送を開始したという。だが、戦時色が濃厚となっていくに従い、健康増進という本来の目的から離れ、国民精神発揚の手段として利用されていく。戦後、そんなラジオ体操にGHQは難色を示した。
 「新しい朝が来た・ラジオ体操50年の歩み」(簡易保険加入者協会・発行)には当時、NHK教養部長でGHQと直接交渉した水川清一らの回想が収録されている。水川は「GHQは《一つの号令で300万人が動く。これはやめさせなければならない》という。だからラジオ体操は気分をさわやかにするものだ。さわやかな気持ちになれば、アメリカに対する反抗心がなくなるし、犯罪もおこらない……ということをいったんです」
 存続の危機を打開するために「戦前から続く体操のイメージとは違った体操」を模索していたNHKは昭和21(1946)年4月13日、旧体操の放送を中止し、第一スタジオで新しいラジオ体操の発表会を行った。まず「曲」を製作し、その後に「体操」を振付けるという戦前とは逆の手法で完成させた体操だった。そして女性指導者を起用。その第1号の1人に選ばれた上貞良江は「(女性の起用は)GHQへの配慮の一つだったのでしょう」と振り返る。放送開始は翌14日。上貞の忙しい日々もスタートした。
 朝4時に起きて、赤坂の自宅から内幸町のNHK放送会館まで焼け跡を歩いて通った。生放送だった。上貞は「当時は治安も悪く、何度か怖い目にも合った。でもみんなとても熱心で、こちらも無我夢中でした。(着物の)帯を利用して体操用のシューズを作ったりもしました」。スタジオ内にはピアノの伴奏者と先生役の女性が1
人か2人。「人が前にいた方がよっぽどやりやすい。緊張しました」というが、混乱期、暗い話題の多い世相の中、音楽にのって女性の声で体操が放送されたこと自体が明るい話題でもあった。
 ただ普及は困難を極めた。物資不足、交通難の時代に、どう広めるか。解説書を作成しての巡回指導や講習会を行うが、食糧が配給制でもあり、日帰り可能な地域や、比較的食糧事情の豊かなところにしか行けなかった。それでも講習会からは終戦直後ならではの学校現場の混乱ぶりも垣間見える。上貞はそうした様子を次のように振り返った。
 「私が行った中で一番遠かったのは富山でした。体育館がいっぱいだったことを覚えています。それにどこの会場も学校の先生がほとんどだったんです。戦後の体育教育の混乱に、(ラジオ体操から)何らかの方向性を見出そうと真剣だったんだと思います」
 だが、普及はままならず、昭和3年から終戦時の8日間を除き、放送の続いたラジオ体操は昭和22年8月31日、1年4カ月余りで打ち切られた。戦時中の体操に対する一種の反動もあったのかもしれない。定着させるには難しい時代だった。再開は人々がゆとりを取り戻し、復活を望む声が高まる昭和26年まで待たねばならなかった。=敬称略(昌)

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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第22回 ラグビー・宿沢広朗

2011年 6月 8日

 春の香り漂う東京・秩父宮ラグビー場のグラウンドで、身長160センチあまりの小さな男がいかつい男たちに抱えられ、何度も宙を舞った。胴上げされた男は、宿沢広朗。ラグビーの世界では、英4カ国がホームユニオンと呼ばれ、権威を持つ。1989年5月28日、宿沢率いる日本代表はスコットランドを28-24で破った。日本ラグビー史上初めて伝統国の一角を崩した一戦は、ラグビー界とビジネス界の双方で抜きん出た才覚を発揮した指揮官がもたらした金星だった。
 スクラムハーフとして早大で1年からレギュラー入りし、日本代表でも活躍した宿沢だが、卒業後は大手銀行に入社、まもなく第一線でのラグビーからは退いた。そんな宿沢が監督就任要請を受けたのは89年2月、スコットランド戦の約3カ月前のことだった。
 誰も「勝てる」とも「勝とう」とも思っていない。だが、宿沢は違った。試合に向けての相手チームの情報収集や分析は誰でも行うが、銀行員としても一流だった宿沢が凡人と違うのは、それを“徹底的”に行ったことだ。典型的なエピソードとして伝えられているのが、スコットランドが試合前日に行った非公開練習。日本チーム関係者は当然、見ることはできない。それならばと、宿沢はグラウンドを見渡せる近接の高層ビルの1室から双眼鏡で観察した。指揮官の勝利への情熱は、選手に伝わる。相手の防御の弱点と、攻撃を止める具体的な作戦を授け、「勝てる」と熱く語りかけ、選手をその気にさせた。まさに、指揮官の情熱がもたらした金字塔だった。
 宿沢はその後、91年ワールドカップ(W杯)まで指揮を執り、日本のW杯での唯一の勝利を挙げた。銀行員としても第一線で活躍する傍ら、2000年12月から約3年間は、日本協会の強化委員長として03年から始まった日本ラグビー界初の社会人全国リーグ「トップリーグ」の創設や日本代表選手の有給化など、プロ化が進む世界ラグビーの潮流に追いつくための態勢を整える中心的役割を担った。
 ラグビー界でもビジネス界でも、欠くべからざる人材としてさらなる活躍を期待された宿沢だが、06年6月、登山中に心筋梗塞を発症し、55歳の若さで帰らぬ人となった。日本ラグビーは、宿沢の遺産ともいうべくトップリーグを中心に強化を進め、徐々に世界との差を詰めつつある。再び、伝統国を破る日を目指して…。=敬称略(謙)

(提供 日本トップリーグ連携機構)

【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第21回 応援団

2011年 6月 1日

 戦前戦後を通じて、スポーツシーンに欠かせないのが応援団。観客を統率し、一丸となって自分のチームのみならず相手チームにもエールを送る応援団のパフォーマンスは学生スポーツの楽しみのひとつでもあり、応援団自体も日本固有の伝統スポーツに位置づけられている。
 組織的な応援が始まったのは、1905年(明治38)年11月12日、野球の早慶戦3回戦。早稲田大学応援部が編纂した『早稲田大学応援部の歴史』には、このときの応援の風景が大きな驚きをもって伝えられている。
 「観衆が驚いて目をみはったのは、場の一隅から突如として起こった異様な応援の声であった。それは、それまで例のなかった応援であった。早大渡米中に用いられた物の余りとして、えび茶に白く『WU(ワセダユニバーシティーの頭文字)』と抜いた応援旗が在米の校友より200本余り送られていた」
 試合から遡ること7カ月。同年4月、早稲田の野球部は日本のスポーツチームとして初の米国遠征を行っており、現地で組織的な応援を目の当たりにした野球部長の安部磯雄が学生に紹介した。早慶戦で初代応援隊長として指揮を執ったのは、当時早稲田高等予科生だった吉岡信敬。「野次将軍」と呼ばれ、馬に乗って早慶戦に現れたという伝説を持つ猛者だ。吉岡のリードによって、「フレーフレー早稲田」と日本初のカレッジエールが戸塚グラウンド(東京都新宿区)にこだました。
 組織的な応援で先んじた早稲田だったが、応援歌の誕生は宿敵、慶應義塾大学に先を越された。1927(昭和2)年、慶応義塾は秋の早慶戦で、かの有名な応援歌「若き血」を披露。スタンドの歌声が選手を鼓舞したのか、そのまま慶応義塾に勝利を呼び込んだ。早稲田も負けじと、4年後の1931(昭和6)年、春の早慶戦で第一応援歌「紺碧の空」を発表。野球部も今までの不振が嘘のような活躍を見せ、見事勝利した。野球の試合だけでなく、応援曲でも切磋琢磨してきたのである。その後、応援団にも吹奏楽団(ブラスバンド)やチアリーダーが登場し、一層華やかな応援を展開するようになった。
 一方で、近年ではときに過剰ともいえる絶対的な上下関係が入部希望者を激減させ、深刻な部員不足に悩む団体も多い。今年1月には1922(大正11)年に創部された名門・明治大学応援団のリーダー部が、部内いじめがきっかけで解散に至った(吹奏楽部、バトン・チアリーディング部は存続)。
 かつて体育会といえば上下関係は当たり前で、どんな競技でも下級生が上級生を敬い、従うのが不文律であった。しかし、スポーツも科学的データが重視され、その対極にあるともいえる根性論は衰退、上下関係も崩壊していった。スポーツの世界も21世紀に入り急激な変貌を遂げる中、上下関係を遵守し、「競技者を応援する」という一点で、自らを厳しく律して鍛える応援団といえども、変わってはいけない部分がある一方で、21世紀を生き残るためには変わらなければいけない部分があるのも、また真実だ。=敬称略(有)

(提供 日本トップリーグ連携機構)

【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第20回 第一回国体

2011年 5月 25日

 街には闇市が立ち、人々は日々の食糧を求めて歩き回っている…、そんな時代だった。戦後の日本スポーツの進展に大きく寄与した国民体育大会(国体)は昭和21(1946)年、戦火を免れた京都市を中心に関西で産声を上げた。夏季、秋季、冬季の3大会のうち先陣を切った夏季大会は8月9日から3日間の日程で、戦後初の日本水泳選手権を兼ねて兵庫・宝塚プールで開催された。
 この年の4月、日大予科2年に進級した古橋広之進は「腹いっぱい食べられれば幸せだった」と当時を振り返る。水泳部の合宿所裏を畑にし、郊外の農家に買出しに行っては転売して食いつないでいたという。
 「(46年に)復学し、また泳ぎ始めてみると、どんどん速くなる。面白くてね、合宿所隣のプールで午前5時ごろから泳いでいたよ」
 国体開催の話を耳にしたのはそんな時期だった。「どんな大会か分からなかったが、日本選手権を兼ねるというので《よし出てやろう》と思った」。ただ飽食の現代からは想像もできない苦労もあった。開催地は兵庫県。汽車賃も宿泊代も食べ物すらない中で、どうやって宝塚まで行くか。古橋は苦笑いを浮かべながら振り返る。「先輩が《俺の言う通りにしろ》というんだ。どうするかというと、汽車には動き出してからデッキにぶら下がる。駅の構内に入る前に飛び降りて、また乗るの繰り返し。下車した町では学校のプールを探して泳いだ。宿直室に泊めてもらえることもあったが、ほとんどが野宿。1週間かけて何とかたどり着いたんだ」
 ところが野宿は到着後も続いた。「明るいうちは宝塚プールで練習し、夜になると川っぺりで寝た。蚊がすごくてね、ふんどしを濡らし体に巻きつけて寝たよ。そうすると涼しいし、蚊も防げる…」という状況で、古橋は四百メートルと八百メートル自由形に出場し、1勝1敗。八百メートルで村山修一(早大)にタッチの差で敗れた。これ以後、昭和25(1950)年8月の日米対抗大阪大会でフォード・コンノ(米国)に敗れるまで、実に4年間、不敗を誇ることになる。
 そしてこの大会は、後に「フジヤマのトビウオ」と称される古橋にとって良きライバルとなる橋爪四郎との出会いも演出した。国体後、古橋は新聞社のイベントに協力し、琵琶湖横断一万メートルと和歌山県での水泳講習会に参加した。和歌山・伊都中学で行われたその講習会で、橋爪と出会い、日大進学を勧めたのだった。
 「復員してきた選手、学生らが一堂に会した国体で勝ったことで、琵琶湖の遠泳にも誘われた。国体はその後の(飛躍への)大きなきっかけになった」。今でこそ国体はその役割自体が議論の対象にもなっているが、あの時代、不世出の英雄の出発点の一つだった。=敬称略(昌)

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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第19回 陸上・西田、大江の“友情のメダル”

2011年 5月 18日

 「あんたらの先輩が美談にしたてたんやけど、そんなことやない。間違えた決定やったから修正したちゅうだけや…」。日本五輪史上あまりにも有名な“友情のメダル”。その主役の一人、西田修平は産経新聞の取材に対し、その由来を意外にもこう語っている。メダル誕生の舞台となったベルリン五輪から60年後の1996年のことだった。
 だが、西田のこうした思いとは別に、ベルリン五輪陸上棒高跳び決勝で演じられた闘いと、試合後、同記録ながら2位となった西田と、3位とされた大江季雄が帰国後に互いの健闘をたたえて、銀と銅のメダルを2つに割り、それをつなぎ合わせて「メダル」を作った行為はまさに“友情”と形容するのがふさわしい。またそれほどの熱闘でもあった。
 1936年8月5日、ベルリン。棒高跳び決勝は、競技開始から4時間が過ぎ、日本の西田、大江と米国のセフトン、メドウスの4人の争いとなっていた。高さは4メートル35。1回目は全員が失敗。2回目でメドウスだけが成功し、3回目に残り3人がバーを落としたことでメドウスの金メダルが決定した。すでにあたりは闇。「寒いのと腹が減ったのとで、もう嫌になりかけていた」と西田は振り返っている。4メートル15に下げた決定戦、西田と大江は跳び、セフトンが落とした。これで日本選手の2、3
位が決まった。当時の規則通りならば順位決定戦を続けねばならない。だが、日本人同士とあって順位決定を日本に任せよう、との提案がなされ、4メートル35の前の4メートル25を、1回目でクリアした西田を2位、2回目に越えた大江を3位とする届け出がなされ、公式順位になったという。
 だが、西田は発表された成績に耳をうたぐった。「同記録だから、2人とも2等」と思っていたというのだ。精も根も尽きるほどの長時間に渡る熱闘と、この思いが“友情”と呼ばれるメダルを生んだ。
 西田には2人の出会いから始まる思いもあったろう。西田、早大1年の冬のことだ。大阪で開かれた陸上競技講習会に、先輩の織田幹雄に連れられて西田はコーチを務め、そこで素質ある青年に目を留めた。京都・舞鶴中学(現・西舞鶴高)3年の大江だった。「卒業したらワセダに来いよ」と声をかけたという。だが、大江は4年修了で慶大予科へと進む。「むこうのマネージャーが座り込みまでやったという。4年だというんで安心していたんだなあ」。西田の述懐だった。それでも学校の垣根を越えて切磋琢磨していったライバルだったからこそ、「2人とも2等」へのこだわりが生まれたのだろう。
 1932年ロサンゼルス五輪での西田の銀、そしてベルリンでの西田、大江の銀、銅と続き、次こそ金メダルという期待は、実現しなかった。40年東京五輪は近づく戦火で返上、中止となり、西田も大江も戦地に趣いたのだ。そして大江は41年12月24日、フィリピンで帰らぬ人となる。27歳だった。生還した西田はその後、大江の分まで陸上の普及に尽力したことは言うまでもない。=敬称略(昌)

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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第18回 体操・加藤澤男、敗戦から得た収穫

2011年 4月 27日

 「勝っていたら、天狗(てんぐ)になっていた」-。1977年に引退するまでに五輪へ3度出場し、日本人最多の金8個を含む計12個のメダルを獲得した。誰もがうらやむ数々の栄光。だが、加藤澤男は意外にも3度目の五輪、個人総合3連覇のかかったモントリオールで味わった敗戦に、「救われた」という。
 1968年メキシコ五輪では、個人と団体総合、床で金、つり輪で銅。初出場ながら堂々たる結果を残し、一躍脚光を浴びた。他方で、大会中は自らの演技に集中するために、他の演技や自己得点を見ないように徹底した。「まるでロバさんだった」という。
 続くミュンヘン五輪に向けては、「(たとえ)他の選手が気になっても、自分の演技に集中できるようにしないと」と、自らが感じていた精神面の課題を克服して臨んだ。その成果だろう。本番の個人総合の優勝争いでは、アンドレアノフ(旧ソ連)に2種目を残し0.025点差を付けられながらも、ライバルの演技を冷静に観察。「守りに入っているように見えた」と分析し、相手の演技を自分への弾みにした。「負ける気がしなかった」という自信に満ちた演技で、前大会を上回る5個のメダルを獲得した。
 気がつけば、メキシコとミュンヘンの両五輪で、史上2人目となる個人総合連覇を果たしていた。次の五輪は、史上初の個人総合3連覇がかかっていた。だが、メダリストとして生活できる時代ではなく、モントリオール五輪への出場は悩んだという。「妻も子供もいる。いつまでもこうやっているわけにはいかないし、3回目は辞めようか…」。家族のことを考えると、引退の二文字さえ頭をよぎった。両足をねんざし、周囲からは「もう終わりだろ」。そんな声も聞こえてきた。
 しかし、療養中に競技を離れて浮かんできたのは、「3連覇できるチャンスはそうない。これを逃してなるものか」という勝利への欲求だった。競技生活の集大成をかけて臨んだ五輪。個人総合での『金』は至上命題となった。
 結果は、加藤が2位でアンドレアノフが優勝。「彼は前と同じ失敗はしなかった。追っても、追っても、追いつかなかった」。ライバルの演技は、完璧(かんぺき)だった。「国旗掲揚で右側を向いたら、あいつの尻しか見えなかった。悔しい気持ちがね、シャクで、シャクでどうしていいか分からないくらい、発狂しそうなくらいだった」。
 気持ちの整理をするために費やしたのは、3カ月。その末に出した答えはこうだった。
 「僕は8回表彰台の一番上に立ち、自分の気持ちだけを考えてきた。でも、負けた人が僕と同じように悔しい思いをしていたのだと分かった」
 勝ち続けてきたからこそたどり着いた悔しさの解釈だった。「それまではすがすがしい気持ちで君が代を聴いていたが、逆に負けたことで助かった。人の気持ちになれてよかった」。前人未到の『金』を逃した影で、大切なものを掴んだという実感があった。=敬称略(み)

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【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第17回 スケート・鈴木恵一

2011年 4月 20日

 「トシをとり、力の限界がきました」。その顔を涙がおおう。72年札幌冬季五輪、スピードスケート男子五百メートル。レースを終えた1人の男が、引退を宣言した。五輪は様々な人間模様を演出するが、時としてそれは、残酷なドラマともなる。札幌五輪で選手宣誓の大役を担った鈴木恵一も、五輪に泣いた1人。男子五百メートルで世界選手権優勝5回、世界記録更新2回。一時代を築き、「世界最速の男」として広く名を知らしめながら、五輪では一度も表彰台に上ることはなかった。
 「収入があると遊んでしまう」と王子製紙を退社し、練習方法への不満から明大スケート部を飛び出すなど、とことん自分の”スケート道”を追求した鈴木は、初出場の64年インスブルック五輪で2位と0秒1差の5位入賞を果たす。その後も順調に進化を遂げ、64年、65年、67年と世界選手権で3度の優勝。そして充実期に迎えた68年グルノーブル五輪は「優勝候補の大本命、最悪でもメダルは確実」のはずだった。
 ところが、レースの1時間前、不運が鈴木に襲いかかる。ウォーミングアップ中に小石を踏み、スケート靴の刃が欠ける緊急事態。「俺はこんなことをするために、これまで努力してきたのか」。刻々とスタート時間が近づくなか、泣きながら刃を研ぎ直したが、間に合うはずもなく、結果は8位。4年間の血のにじむような努力が無に帰し、己の運命を呪うしかなかった。
 失意の中一度は引退したが、母国開催の札幌五輪を控え、他に有力選手がいないことから、現役に復帰。母国にメダルをもたらすため、厳しい練習を再開した。ところが、腰痛などに加え、ゴミを燃やした際にスプレー缶の破片が当たり、目を痛めるなど、ここでも不運はついてまわり、現役最後のレースは、19位。最後まで五輪の女神が鈴木に微笑みかけることはなかった。
 鈴木は現在、日本スケート連盟の強化部長として、2010年バンクーバー五輪に向け、日本チームを支える。選手としては果たせなかった夢を、いまなお追いかけている。=敬称略(謙)

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