何が起こるか分からないのが五輪。とはいってもアーチェリーでメダル獲得を予想した者など当時はいなかったに違いない。1976年モントリオール五輪でのことだ。
前回1972年ミュンヘン五輪で52年ぶりに復活したアーチェリー。このミュンヘン大会での日本選手の最高成績は17位だっただけに、4年を経たとはいえ、男女各2人の代表のうち、1人でも入賞してくれれば、「御の字」というのが関係者の本音だった。というのも、4人のうち3人までが国際大会の経験がなかったというのだから、メダルを期待する方が無理というものだった。
そんな周囲の予想を大きく覆したのが、同志社大2年、19歳の道永宏だった。初の国際試合が五輪だったにもかかわらず、度胸満点のプレーを披露して快挙を達成してしまったのだから競技関係者もさぞや驚いたことだろう。
競技は7月27日から4日間の日程で行われた。道永は初日に3位につけると、得意とした50メートルと30メートルが行われた2日目も3位をキープ。3日目は苦手の90メートルと70メートルだったが、正確に的を射抜き続けて2位に浮上した。迎えた最終日。「怖いもの知らず」の道永もさすがに重圧に押しつぶされそうになったというが、勢いは止まらず、そのまま逃げ切り、銀メダルに輝いた。
1956年10月生まれ、神戸市出身。両親がともにアーチェリー選手とあって、4歳の頃からアーチェリーに触れて育ったという。もっとも中学時代は体操部で、本格的にアーチェリーを始めたのは高校入学後。それも高校にはアーチェリー部がなく、神戸アーチェリークラブで練習に励んだ。練習に明け暮れた日々、いつしか「練習量は日本で一番」という自信が自らを支えていた。神戸市でアーチェリー用具店を経営していた元世界選手権代表の父の指導も大きかった。
日本初のアーチェリーでのメダル獲得の瞬間を見守ったその父は、号泣。その横で道永の笑顔は輝いていた。「日本人は腕力がない。これを補ってくれたのが父です。家の近くの90メートルの射場でよくしごかれたものです」と道永。父子でつかんだメダルでもあった。道永は、大学卒業後も競技を続け、1980年モスクワ五輪を目指したが、日本の不参加が決まり、競技の一線から退いた。=敬称略(昌)
(提供 日本トップリーグ連携機構)
【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第213回 アーチェリー・道永宏
練習2014年4月/トライアスロン
3/30順延開催(ミックスリーグ)/フラーテル・カップ
【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第212回 陸上・渡辺康幸
まさに〝スーパーエース〟と呼ぶにふさわしい活躍だった。箱根駅伝では、いきなり大学1年から花の2区に抜擢され、総合優勝に貢献。2年は1区で区間新(1時間1分13秒)を、3年では2区で区間新(1時間6分48秒)を叩き出した。「とにかくモノが違う」とは早大OBの名ランナー、瀬古利彦の評だ。4年でも2区で8人抜きの激走を披露した。華やかな世間の注目を浴び、早大の渡辺康幸は走り続けていた。
当時の代名詞は「有言実行」。瀬古の持つ1万㍍日本学生記録(27分51秒61)の更新も公言していたことの一つ。大学4年の世界選手権予選で27分48秒55をマークし〝瀬古越え〟を果たすと、後日、「絶対の練習をして絶対の自信があったから言うんです」と語っている。
若き天才ランナーは将来、マラソンで世界の強豪と勝負する青写真を描いていた。ただ、この道は真っ直ぐ栄光に向かってはいなかった。
まず大学3年の3月、びわ湖毎日でマラソンデビューを計画した。しかし、風邪と花粉症でコンディションを崩し出場を見送るはめに。挽回を期した翌年2月の東京国際。アトランタ五輪男子マラソンの代表選考レースの一つだったが、ここでも欠場。レース前日の練習で左太ももに肉離れが発生したのだ。スタートにすら立てない状況に「僕がこのまま終わるような選手だと思ってほしくありません」。無念の涙がほおを伝った。
幸い故障は軽く、わずか3週間後のびわ湖毎日に強行出場。だが、先頭集団に付けたのは35㌔すぎまで。そこから後退し、2時間12分39秒の7位。五輪切符は露と消えた。「意識が朦朧として前が見えなかった。足に来た」。簡単に勝てるほど42・195㌔は甘くなかった。
大学卒業後はヱスビー食品で競技を続けたものの輝きは戻らなかった。慢性的な左アキレス腱の痛みが癒えないまま2002年、引退。「走る意欲、向上心をなくしてしまった」。フルマラソンは、あのびわ湖毎日が唯一の完走レースとなった。
現在は母校・早大の駅伝監督として指揮を執る。就任当初こそシード落ちも経験したが、2010年度には箱根駅伝で総合優勝に導き、出雲、全日本と合わせ大学駅伝3冠を達成した。栄光も挫折も知る、かつての〝史上最強の学生ランナー〟は「やはり日本人のスターが出てこないとね」と語る。箱根を、そして世界を目指す戦いは、指導者に立場を変えて続いている。=敬称略(志)※記録は全て当時
(提供 日本トップリーグ連携機構)
【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第211回 車いすバスケットボール・京谷和幸
かつて将来を嘱望されたサッカー選手がいた。京谷和幸。高校時代、全日本ユース代表に選出されたミッドフィルダーだ。悲劇は1993年11月、ジェフ市原でプロデビューを果たした1週間後に起きた。乗用車を運転中、脇から出てきた車を避けきれず、電柱に激突。気が付くとベッドの上で点滴の管を付けていた。
2カ月後、医師から一生、車いすだと告げられた。下半身不随だった。事故後、交際していた陽子さんの強い勧めで、宣告されたときにはすでに結婚していた。彼女は歩けなくなることを知っていたのだ。事実を突きつけられた京谷に、新妻は「2人なら乗り越えられるよ」と言ってくれた。なぜか頭に来た。「お前に俺の気持ちが分かるか。いいよな、お前は泣けて、俺は悲しすぎて涙も出ねえよ」。当時22歳。気持ちのやり場が見つからなかった。
1人になったら泣けてきた。夜通し泣いて涙が枯れ、空腹に気付いた。「俺には食べ物を買ってきてくれる人がいる」と思った瞬間、妻の言った「2人なら」の意味が染みた。「落ち込んでいられない」。翌日からトレーニングを始めた。負けず嫌いを地でいく男は、1年半以上掛かると言われるリハビリを8カ月でクリアし退院した。
車いすバスケットとの出会いは、陽子さんが障害者手帳の交付手続きに行った役所で、窓口担当をしていたクラブチームの指導者に誘われたのがきっかけだった。初めて練習に行った時、京谷は「こんな真似はできない」と思ったという。腕だけで車いすを漕ぐのもきつかったが、もっときつかったのは止まることだ。走っている車輪を素手で止めると、手の皮がベロリとむけた。
だが、これも練習を重ねることで克服。ガードのポジションでサッカー仕込みの攻撃センスを発揮し、頭角を現していく。パラリンピックの代表を意識するようになったのは、人工授精で授かった長女の存在が大きかった。「この子が誇れる父親になりたい」。サッカー選手だった頃は自己中心的だったと反省し、欠点を全て捨て去るつもりで臨んだ。そして、シドニー、アテネ、北京と3大会連続でパラリンピックに出場。北京では日本選手団の主将も務めた。
両足の自由は確かに失った。ただ、それを乗り越えた先で得た「充実感」は、とてつもなく大きく深かった。「家族がいて、夢中になれる車いすバスケがある。もう、仮に医学が発達して足が治るとしても、このままでいい。今の自分が好きなんです」=敬称略(志)
(提供 日本トップリーグ連携機構)
本日3/30フラーテル・カップ中止のお知らせ
本日予定しておりましたフラーテル・カップは、荒天のため、中止を決定いたしました。
トップリーグ、ミックスリーグ、ジュニアリーグ全日程の中止となります。
ミックスリーグ2/2試合結果/フラーテル・カップ
フラーテル・カップ2013-14 ミックスリーグ
●名古屋国際中学校男子B 0-4 フラスケット木曽川○
○名古屋国際中学校男子A 6-1 FHSC●
●名古屋国際高校女子 0-2 向陽Pixies○
○名古屋国際中学校男子B 4-0 FHSC●
○名古屋国際中学校男子A 3-2 向陽Pixies●
△ZeFF.758 1-1 グランティーオス△
●ZeFF.758 1-3 フラスケット木曽川○
●名古屋国際高校女子 4-0 Primrose
※丘の上のCA、RISING CAは、資格試験のため不参加。
【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第205回 ノルディックスキー複合・河野孝典
日本が冬季五輪に初参加した1928年サンモリッツ大会から代表を送っているノルディックスキー複合で、個人種目でメダルを獲得したのは1994年リレハンメル大会で銀メダルに輝いた河野孝典のみ。W杯で3度総合優勝を果たした荻原健司も、五輪の個人種目では4位が最高成績だった。
その唯一のメダルだが、河野への期待が大きかった訳ではない。期待されていたのは、やはりエースの荻原。飛躍(ジャンプ)でリードして距離(クロスカントリー)で逃げるのが日本の必勝法だったが、リレハンメルでは飛躍で日本勢は奮わず、荻原が6位と出遅れる中で、4位につけたのが河野だった。
1969年3月、長野県野沢温泉村に生まれた河野は、5歳からスキーを始め、小学校4年でジャンプ、中学1年で複合を始めた。飯山南高から早大に進学すると、大学3年時に世界ジュニア選手権で知り合ったノルウェー選手の元に自費留学。本場の選手の生活や最先端のトレーニング法を学び、「結局は孤独に勝つこと」との信念を身につけたという。そして、この留学での経験を元に練習を積み、W杯などでの躍進につなげていく。
そして迎えたリレハンメル。後半の距離(15㌔)に向け、河野は「まだ半分終わっただけじゃないか。前向きに走ります」と挑んだ。言葉通り、スタート直後に3位に上がると、3㌔過ぎからは地元ノルウェーのビークと銀メダル争いのデットヒートに。「最後に1㌢でも前に出ればいい」と歯を食いしばってのゴール。ビークとはわずか0秒8差の2位に入った。「いい走りをすれば必ずメダルに届くと思っていた。ラスト1㌔で前に出たのは計算通り」。早大の後輩でもある荻原の陰に隠れがちな存在だったが、その荻原とともに1992年アルベールビル、そしてこのリレハンメル大会と、団体で2大会連続金メダルを獲得した河野が、日本に複合初の個人のメダルをもたらした瞬間だった。=敬称略(昌)
(提供 日本トップリーグ連携機構)
【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第204回 スキー ジャンプ・原田雅彦
競技開始が約30分も遅れる激しい風雪に見舞われていた。1998年長野五輪スキー・ジャンプ団体。金メダルが期待される日本は1回目、岡部孝信、斎藤浩哉が好調な滑り出しで首位に立ち、3番手の原田雅彦の順番を迎えた。
原田には期するものがあった。4年前のリレハンメル五輪ジャンプ団体。このとき、「日の丸飛行隊」には1972年札幌五輪以来の金メダルが目前にまで迫っていた。2本目で西方仁也が135㍍、続く岡部孝信が133㍍、葛西紀明が120㍍と見事な飛躍を見せ、1回目トップのドイツに55・2点差をつけて逆転。最後の原田が105㍍を飛べば、優勝だった。しかし、ここでまさかが起こる。「踏み切りのタイミングが狂った」という原田は97・5㍍と大失速。ドイツに再び逆転を許し、銀メダルに終わった。うずくまり、しばらく動けなかった原田。1980年レークプラシッド五輪で、八木弘和が銀メダルを獲得して以来の日本勢のメダルとはいえ、素直に喜ぶことは出来なかった。長野はその雪辱の舞台でもあった。
だが、ここでも再び失速を演じてしまう。猛吹雪が災いしたのだろう。79・5㍍。続く船木和喜も伸びず、日本は4位と出遅れてしまう。「また、みんなに迷惑をかけるのかな」。原田の心は乱れた。
1968年5月生まれ、北海道上川町出身。身長173㌢。小学校3年の時からジャンプを始め、上川中学時代には、史上初の中学生代表として世界ジュニア選手権に出場した天才も、リレハンメルでの失速で自信を喪失。五輪翌年の1995年にはフォームの改造がうまくいかずに、W杯メンバーからも外された。失意の日々を乗り越え、努力を重ねて迎えた長野五輪。それだけに、このままでは終われない―。
迎えた2回目、日本は岡部がバッケンレコードの137㍍をマークし、首位を奪還。そして原田も137㍍の大ジャンプを披露してチームに貢献。最後の船木が125㍍を飛び、夏冬を通じて日本にとって通算100個目となる五輪金メダルを確定させた。その瞬間、涙顔の原田が真っ先に船木に抱きついた。「よかった。みんな頑張ったなぁ」―。感慨深げな原田の涙声が会場に響いた。
長野では個人ラージヒル(LH)でも銅メダルを獲得した原田。世界選手権では1993年にノーマルヒル(NH)、97年にLHを制覇してもいる。長野後には、2006年トリノ五輪にも出場。しかし、NHはスキーの長さに対して体重が足りずに失格してしまう。そして、そのシーズンで競技人生を終えた。=敬称略(昌)
(提供 日本トップリーグ連携機構)
ミックスリーグ1/12試合結果/フラーテル・カップ
フラーテル・カップ2013-14 ミックスリーグ
○ZeFF.758 2-0 名古屋国際高校女子●
○FHSC 4-0 Primrose●
●グランティーオス 0-9 名古屋国際中学校男子B○
○フラスケット木曽川 4-3 名古屋国際中学校男子A●
○FHSC 2-1 名古屋国際高校女子●
●Primrose 0-2 名古屋国際中学校男子A○
○フラスケット木曽川 8-0 グランティーオス●
●ZeFF.758 3-6 名古屋国際中学校男子B○
※丘の上のCA、RISING CA、向陽Pixiesは、ウィンターリーグ参加のため不参加







