「今までの(競技人生の)全てが詰まっている」―。メダル授与式で葛西紀明はこう言って顔をほころばせた。1992年アルベールビル大会から7大会連続で五輪に出場し、追い求めてきた個人種目でのメダル。2014年ソチ五輪ノルディックスキーのジャンプ男子ラージヒルでようやく銀メダルに輝いた。冬季五輪での日本勢最年長メダルであり、日本勢のジャンプでの表彰台は1998年長野五輪以来16年ぶりの快挙でもあった。
1回目に最長不倒タイの139メートルを飛んで2位につけると、2回目も133・5メートルをマーク。合計277・4点は優勝したカミル・ストッホ(ポーランド)に1・3点差だった。「もう少しで金に届きそうだった。6対4で悔しい」と語ったが、2回目のジャンプを終えると、ほかの日本メンバーたちが駆けつけて祝福。ともに喜び合った。
「(団体銀のリレハンメル五輪は)みんなでうれしさを味わった。きょうは独り占めで本当にうれしい」という言葉に実感がこもる。ここまで長い道のりだった。悲運のエースとも呼ばれた時期があった。高校1年からワールドカップ(W杯)に参戦。当時の最年少となる19歳でW杯初優勝も飾った。それ以来、世界の第一線で活躍し続けてきたが、五輪の個人メダルには縁がなかった。さらに、所属先は2度も廃部に。1994~95年シーズンには着地で転倒し、鎖骨を2度も折った。それでも諦めなかった。
葛西を支え続けたのは、長野五輪で味わった悔しさだった。地元開催の五輪で日本は団体金メダルに輝いたが、直前の故障でメンバーから外れた。「4年に1度、五輪が近づくと、あの映像が流れる。悔しくて仕方ない」。札幌市内の自宅にトレーニング器具をそろえ、ランニングは一日も欠かさない。体重計には1日に何度も乗り、体調管理に努めてきた。
迎えたソチ五輪シーズン。1月のW杯では最年長優勝も果たした。若手に劣らない活躍ぶりに、海外勢も畏敬の念を込めて「レジェンド」と呼ぶほどだ。
それだけに、悲願の個人メダルはうれしかったに違いない。それでも涙はなかった葛西が、団体ラージヒルでは泣いた。合計1024・9点を挙げての銅メダル。日本は2回目の3人目を終えて3位に付け、最後に葛西が飛び、銅メダルを確定させた。
万全な状態のメンバーはいなかった。膝を痛めながら出場した伊東大貴、竹内択は試合後に難病の「チャーグ・ストラウス症候群」の疑いが高いと診断されていることを告白した。だからこそ「後輩たちにメダルを取らせてあげたかった。4人で力を合わせてメダルを取れたことがうれしい」。瞳に光るものがにじんでいた理由だった。=敬称略(昌)
(提供 日本トップリーグ連携機構)
【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第209回 スキー・ジャンプ 葛西紀明
『クラブマネジメント情報交流セミナー』開催案内
愛知県広域スポーツセンターより、「クラブマネジメント情報交流セミナー」 開催のご連絡を頂きましたので、ご案内させて頂きます。
日程・場所等につきましては、下記の通りとなります。
講義内容、お申し込み方法等等詳細の案内が参りましたら、改めてご案内させて頂きます。
なお、7月20日(日)、21日(月祝)のセミナーは、(公財)日本体育協会公認アシスタントマネージャーにおける専門科目の受講免除適用コースとなる予定とのことです。
お問い合わせは、愛知県広域スポーツセンター事業推進室までお願いいたします。
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◆クラブマネジメント情報交流セミナー
日時:平成26年7月19日(土)、7月20日(日)、7月21日(月祝)
会場:愛知産業労働センター(ウィンクあいち) 〒450-0002 名古屋市中村区名駅4-4-38
対象:総合型地域スポーツクラブ実務担当者、またはそれを志す者、市町村担当者等総合型地域スポーツクラブ設立に携わる者
定員:各日30名程度
【お問い合わせ先】
愛知県広域スポーツセンター事業推進室(愛知県教育会館内)
住所:〒460-0007 名古屋市中区新栄1-49-10
e-mail:[email protected]
tel:052-249-2720
fax:052-249-2740
『スポーツリーダー交流セミナー』開催案内
愛知県広域スポーツセンターより、「スポーツリーダー交流セミナー」 開催のご連絡を頂きましたので、ご案内させて頂きます。
日程・場所等につきましては、下記の通りとなります。
講義内容、お申し込み方法等等詳細の案内が参りましたら、改めてご案内させて頂きます。
なお、6月28日(土)、29日(日)のセミナーは、(公財)日本体育協会公認スポーツ資格における共通科目Ⅰの受講免除適用コースとなる予定とのことです。
お問い合わせは、愛知県広域スポーツセンター事業推進室までお願いいたします。
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◆スポーツリーダー交流セミナー
日時:平成26年6月7日(土)、6月15日(日)、6月28日(土)、6月29日(日)
会場:愛知産業労働センター(ウィンクあいち) 〒450-0002 名古屋市中村区名駅4-4-38
対象:総合型地域スポーツクラブで活動する指導者等地域のスポーツ振興に関与する者
定員:各日30名程度
【お問い合わせ先】
愛知県広域スポーツセンター事業推進室(愛知県教育会館内)
住所:〒460-0007 名古屋市中区新栄1-49-10
e-mail:[email protected]
tel:052-249-2720
fax:052-249-2740
『ソニーHC BRAVIA Ladies』親子ホッケー教室/クラブ・ネットワーク
愛知県内で連携している総合型地域スポーツクラブ3クラブにおいて、昨年に引き続き、今年も女子日本一のチームである『ソニーHC BRAVIA Ladies』の選手の皆さんによる親子ホッケー教室が開催されました。
毎週行われているホッケースクールに通う子どもたちから、初めてホッケーを体験する子どもたち、そしてお父さん・お母さんまで楽しめるプログラム
ホッケー教室の最後には恒例となりつつあるオリジナルストラックアウトが登場し、宣言通りの的を射抜いた子にはマフラータオルがプレゼントされました。そして参加者全員に、ノベルティグッズとホッケー教室の最初に撮影した集合写真が手渡されました。ホッケー教室終了後は、その場でサイン会となりました。
ご協力頂きましたソニーHC BRAVIA Ladiesの監督・選手及び関係者の皆様、各クラブ関係者の皆様、ありがとうございました。
◎1月26日(日) 木曽川文化・スポーツクラブ
(中島史恵選手、徳島葵選手、小沢菜々恵選手)
◎2月16日(日) ソシオ成岩スポーツクラブ
(深野加弥選手、阪口真紀選手、石田伊津美選手、小沢菜々恵選手)
◎2月23日(日) 朝日丘スポーツクラブ
(キム・ボミ選手、浅野祥代選手、深野加弥選手、友次あゆみ選手、日隈遥選手)
※2月15日(土)に開催を予定しおりました、ウィル大口スポーツクラブでのホッケー教室は、雪の影響により中止となりました。
【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第208回 アルベールビル五輪ショートトラック男子5000㍍リレー
個人では力及ばずとも、チームでなら戦える―。ノルディックスキー複合、ジャンプ、陸上では男子400メートルリレー、競泳ならメドレーリレー……団体競技で数多くのメダルを獲得してきた日本。ショートトラックでもそうした〝伝統〟の力が発揮された。1992年アルベールビル五輪男子5000メートルリレー。この大会から正式種目となったショートトラックは男子1000メートル、男子5000メートルリレー、女子500メートル、女子3000メートルリレーの4種目が行われた。1988年カルガリー五輪では公開競技とあって選手村にも入れないという状況の中で、女子3000㍍の獅子井英子の金メダルなど、3つのメダルを獲得する活躍を見せていたニッポン。正式種目となって迎えた五輪での活躍はショートトラック界にとって死活問題でもあった。
しかし、状況は様変わりしていた。「世界のレベルが上がっている上に、(海外勢も)目の色を変えてきている」。厳しい戦いを余儀なくされ、メダルに届かないまま、最終種目の男子5000メートルリレーを迎えた。
悲願のメダルをかけた決勝。しかし、日本はスタートで出遅れてしまう。1周111・12㍍のリンク。カーブがきつく接触、転倒が伴う競技で、ニュージランドとし烈な3位争いを繰り広げた。残り7周で河合季信が3位に浮上すると、必死のリレーを見せる―。
実はこのとき、日本選手団の旗手を務めた川崎努は絶不調に陥っていた。不調の22歳は決勝出場辞退を申し出たほどだったという。しかし、仲間に励まされ、気持ちを奮い立たせてリンクに立った。そんな川崎を、赤坂雄一、河合、石原が見事にフォローした。ゴール直前、最後は河合が激しくまくって3位でゴール。「アンカー勝負ができるよう力をためていた」と河合。まさに狙い通りの展開に、納得の表情が浮かんだ。もちろん、どんなにチームワークがよくとも、個の力があってこその団体。河合自身、筑波大大学院を1年間休学して競技に打ち込んできた努力があったからこその歓喜の瞬間でもあった。そして、ここから日本ショートトラック界の五輪史が始まる。まさに記念の一日となった。=敬称略(昌)
(提供 日本トップリーグ連携機構)
ミックスリーグ2/2試合結果/フラーテル・カップ
フラーテル・カップ2013-14 ミックスリーグ
●名古屋国際中学校男子B 0-4 フラスケット木曽川○
○名古屋国際中学校男子A 6-1 FHSC●
●名古屋国際高校女子 0-2 向陽Pixies○
○名古屋国際中学校男子B 4-0 FHSC●
○名古屋国際中学校男子A 3-2 向陽Pixies●
△ZeFF.758 1-1 グランティーオス△
●ZeFF.758 1-3 フラスケット木曽川○
●名古屋国際高校女子 4-0 Primrose
※丘の上のCA、RISING CAは、資格試験のため不参加。
【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第207回 スキージャンプ・八木弘和
1980年レークプラシッド五輪70㍍級ジャンプの1本目。青色のジャンプスーツを着た八木の踏み切りは遅く、高度は低かった。それでも持ち前の足の強さでスキーを引きつけ、87㍍まで持っていった。2位。そして勝負の2本目。1位につけたインナウアー(オーストリア)は90㍍を飛んでいた。先行されたことで力みが生まれたか―。踏切のタイミングが悪く、思うような飛距離は出ない。83・5㍍。「あれでよく2位に残れたものだ」と父で日本代表コーチの博氏がいうほど、納得の内容とは遠かった。
とはいえ、前回1976年インスブルック五輪で入賞者すら出せなかった日本にとってはスキー、スケートを含めて前々回の1972年札幌五輪以来のメダルであり、レークプラシッド五輪でも、この銀メダルが結果として唯一のメダルとなった。
1959年12月生まれ、北海道小樽市出身。明大時代に全日本学生選手権を制した父は、息子が小学6年の時に指導を開始した。「こいつはものになる」。信念のもとスパルタ教育を施す父。その期待に応えるように、札幌五輪金メダルの笠谷幸生が「いつでも60%以上の力を発揮できる」と評価するまでに心身の強い選手に育っていった。
1979年-80年のシーズンに新設されたジャンプのW杯で優勝1回、シーズン総合4位にもなった。そして五輪。成功とはいえない2回目の飛躍もあって「10位位内に入れればいいと思った」というが、銀メダルという結果に「いつも『普段着のジャンプをしろ』といわれていたので、それを心掛けました」と思わず熱いものがこぼれた。その傍らには、やはり目を潤ませて「でかした」と喜ぶ父の姿もあった。練習を始めた小学生以来、まさに親子二人三脚で獲得した銀メダルだった。
その後は故障にも悩まされ、1984年サラエボ五輪後に引退。1989年にオーストリアにコーチ留学し、1991年にはデサントのスキー部監督に就任して、1998年長野五輪ラージヒル個人と団体で金メダルを獲得した船木和喜を育てた。その後、日本代表コーチなどを歴任し、日本ジャンプ界の発展に力を注いだ。=敬称略(昌)
(提供 日本トップリーグ連携機構)
【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第206回 モータースポーツ・佐藤琢磨
日本モータースポーツ界の新たな歴史を切り開いた。2013年4月21日、米国カリフォルニア州ロングビーチ。市街地を走る1周3・17㌔のコース80周で競うレースで、前半に首位に立つと、そのまま逃げ切ってみせた。2位に大差をつけての完勝だった。「夢のようだった。優勝するときはこういうふうに来るんだということを感じた」。北米最高峰の自動車レースとされるインディカー・シリーズで、佐藤琢磨が日本人ドライバーとして初めて頂点に立った。
バイタリティーは10代のころからずば抜けていた。10歳のときに三重県鈴鹿市で開催されたF1日本グランプリを観戦し、そのスピード感や臨場感に魅了されたという佐藤だが、学生時代にまず夢中になった乗り物は、自転車だった。和光学園高校(東京)では、自らが中心になって自転車部を立ち上げ、高校総体で優勝。1995年に早稲田大学進学後も自転車部で活躍し、同年のインターカレッジで2位、96年には全日本学生選手権で優勝した。
同年代のトップとして着実に結果を積み重ねてきた第一人者だけに、そのまま自転車競技を続けてもおかしくないところだが、佐藤の決断は違った。子供の頃から抱き続けていたモータースポーツへの強い憧れから、鈴鹿レーシングスクールに入学し、主席で卒業。大学を中退し、レーシングドライバーの道を歩み始めた。
そして、2002年にF1デビューを果たし、04年の米国グランプリで3位に入るなど順調に成長を続けた。しかし、思わぬ形で状況は暗転した。当時の所属チームが金銭面で厳しい状況に追い込まれ、08年に撤退する事態に。F1復帰の道を模索したものの、かなわず、新たな活躍の場として選んだのが、インディカーだった。
シリーズ参戦4年目、52戦目での快挙に、「メジャー大会での初優勝なのでうれしい。大きな自信につながった」と手応えを口にした佐藤。今年もまた、新たな高みを目指して、ハンドルをにぎり続けている。=敬称略(謙)
(提供 日本トップリーグ連携機構)
【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第205回 ノルディックスキー複合・河野孝典
日本が冬季五輪に初参加した1928年サンモリッツ大会から代表を送っているノルディックスキー複合で、個人種目でメダルを獲得したのは1994年リレハンメル大会で銀メダルに輝いた河野孝典のみ。W杯で3度総合優勝を果たした荻原健司も、五輪の個人種目では4位が最高成績だった。
その唯一のメダルだが、河野への期待が大きかった訳ではない。期待されていたのは、やはりエースの荻原。飛躍(ジャンプ)でリードして距離(クロスカントリー)で逃げるのが日本の必勝法だったが、リレハンメルでは飛躍で日本勢は奮わず、荻原が6位と出遅れる中で、4位につけたのが河野だった。
1969年3月、長野県野沢温泉村に生まれた河野は、5歳からスキーを始め、小学校4年でジャンプ、中学1年で複合を始めた。飯山南高から早大に進学すると、大学3年時に世界ジュニア選手権で知り合ったノルウェー選手の元に自費留学。本場の選手の生活や最先端のトレーニング法を学び、「結局は孤独に勝つこと」との信念を身につけたという。そして、この留学での経験を元に練習を積み、W杯などでの躍進につなげていく。
そして迎えたリレハンメル。後半の距離(15㌔)に向け、河野は「まだ半分終わっただけじゃないか。前向きに走ります」と挑んだ。言葉通り、スタート直後に3位に上がると、3㌔過ぎからは地元ノルウェーのビークと銀メダル争いのデットヒートに。「最後に1㌢でも前に出ればいい」と歯を食いしばってのゴール。ビークとはわずか0秒8差の2位に入った。「いい走りをすれば必ずメダルに届くと思っていた。ラスト1㌔で前に出たのは計算通り」。早大の後輩でもある荻原の陰に隠れがちな存在だったが、その荻原とともに1992年アルベールビル、そしてこのリレハンメル大会と、団体で2大会連続金メダルを獲得した河野が、日本に複合初の個人のメダルをもたらした瞬間だった。=敬称略(昌)
(提供 日本トップリーグ連携機構)
【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第204回 スキー ジャンプ・原田雅彦
競技開始が約30分も遅れる激しい風雪に見舞われていた。1998年長野五輪スキー・ジャンプ団体。金メダルが期待される日本は1回目、岡部孝信、斎藤浩哉が好調な滑り出しで首位に立ち、3番手の原田雅彦の順番を迎えた。
原田には期するものがあった。4年前のリレハンメル五輪ジャンプ団体。このとき、「日の丸飛行隊」には1972年札幌五輪以来の金メダルが目前にまで迫っていた。2本目で西方仁也が135㍍、続く岡部孝信が133㍍、葛西紀明が120㍍と見事な飛躍を見せ、1回目トップのドイツに55・2点差をつけて逆転。最後の原田が105㍍を飛べば、優勝だった。しかし、ここでまさかが起こる。「踏み切りのタイミングが狂った」という原田は97・5㍍と大失速。ドイツに再び逆転を許し、銀メダルに終わった。うずくまり、しばらく動けなかった原田。1980年レークプラシッド五輪で、八木弘和が銀メダルを獲得して以来の日本勢のメダルとはいえ、素直に喜ぶことは出来なかった。長野はその雪辱の舞台でもあった。
だが、ここでも再び失速を演じてしまう。猛吹雪が災いしたのだろう。79・5㍍。続く船木和喜も伸びず、日本は4位と出遅れてしまう。「また、みんなに迷惑をかけるのかな」。原田の心は乱れた。
1968年5月生まれ、北海道上川町出身。身長173㌢。小学校3年の時からジャンプを始め、上川中学時代には、史上初の中学生代表として世界ジュニア選手権に出場した天才も、リレハンメルでの失速で自信を喪失。五輪翌年の1995年にはフォームの改造がうまくいかずに、W杯メンバーからも外された。失意の日々を乗り越え、努力を重ねて迎えた長野五輪。それだけに、このままでは終われない―。
迎えた2回目、日本は岡部がバッケンレコードの137㍍をマークし、首位を奪還。そして原田も137㍍の大ジャンプを披露してチームに貢献。最後の船木が125㍍を飛び、夏冬を通じて日本にとって通算100個目となる五輪金メダルを確定させた。その瞬間、涙顔の原田が真っ先に船木に抱きついた。「よかった。みんな頑張ったなぁ」―。感慨深げな原田の涙声が会場に響いた。
長野では個人ラージヒル(LH)でも銅メダルを獲得した原田。世界選手権では1993年にノーマルヒル(NH)、97年にLHを制覇してもいる。長野後には、2006年トリノ五輪にも出場。しかし、NHはスキーの長さに対して体重が足りずに失格してしまう。そして、そのシーズンで競技人生を終えた。=敬称略(昌)
(提供 日本トップリーグ連携機構)
















