フラーテルファミリー8号が発行されました!

2011年 7月 13日
 5月に発行されたばかりのフラーテルファミリーが、当初の計画通し、7月に第8号が発行されました。会員の皆様には、ほどなく届くと思いますので、ご期待下さい。なお、いつものことながら1週間たっても届かないという方がいらっしゃいましたら、ご遠慮なく当クラブ宛ご連絡下さい。

関西学連コンプライアンス研修会へ指導者育成の講師派遣!

2011年 7月 13日

 関西学生ホッケー連盟コンプライアンス委員会からの要請により、指導者育成のための講師を派遣しました。7月9日(土)と翌10日(日)の2日間にわたり、ほとんどの大学から多数の参加がありました。関西学連としては、このような規模で大掛かりな研修会をはじめて実施されたようですが、非常に意味深い重要な研修会であったようです。ぜひとも、今後につなげてほしいと思います。

関西学生ホッケー連盟 ブログ  http://blog.goo.ne.jp/kansaihockey/e/75ed2e600f2e8858e06b77627de0f054

▼関西学連コンプライアンス研修会の様子1

関西学連研修会1

▼関西学連コンプライアンス研修会の様子2

関西学連研修会2

日本スポーツ産業学会 第20回大会!

2011年 7月 13日

 日頃から大変お世話になっている、筑波大学の高橋義雄准教授より次の学会大会の案内がございましたので、お知らせ致します。奮ってご参加ください。

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       日本スポーツ産業学会 第20回大会

1.メインテーマ: 『転換期のスポーツとスポーツ産業
           -危機に負けるな!がんばれニッポン!ふんばれスポーツ- 』

2.会    期: 2011年7月16日(土)~17日(日)

3.会    場: 東京工業大学大岡山キャンパス
          〒152-8550東京都目黒区大岡山2-12-1

※アクセスは「東京工業大学ホームページ」を参照

http://www.spo-sun.gr.jp/html/event/a_late.html

                                   以上

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被災地へボランティアカット!

2011年 7月 13日

 皆さん、ボランティアカットという言葉をご存知でしょうか?もちろん字のごとく、ボランティアで床屋さんをするということです。社団法人日本ホッケー協会の特別協賛会員を引き受けて頂いている、名古屋市西区の「トランスファーヒビキ」というヘアーサロンでは、ご自身の加盟する同業組合の皆さんと、宮城県の南三陸町へボランティアカットへ行かれました。まさに弾丸ツアーで、休日前の業務終了後、車で乗り合い夜間のうちに宮城へ移動。休日中にボランティアカットを行い、翌営業日の開始までに帰名されたとか。私たちも、フラーテル・カップの大会で義援金を募り、被災地へ送りましたが、トランスファーの皆さんは髪を切るのに苦労されているであろう現地を思い、弾丸ツアーを企画されたそうです。直接、スポーツには関係の無いことですが、知らないところで協力し合っている皆さんの、その人間スピリッツを皆さんにお知らせ致します。

トランスファーヒキビ ブログ http://transfer.p1.bindsite.jp/blog.html

【フラーテル・カップ2011/愛知県初のマスターズチーム結成!】

2011年 7月 6日
 今年も、更に規模が大きくなったフラーテル・カップ。その中でも、なんといっても話題となるチームが初めて参加してくれました。 その名も、名古屋グランティオス!このチームは、愛知県のマスターズ愛好家を中心に、地元で継続的に活動をすることと、全日本マスターズ大会(更にはマスターズワールドカップ?)を目指すチームとして今年産声を上げてくれました。愛知県では初めてのマスターズチーム。おそらく、このチームの役割は非常に大きいと言えるでしょう。このサイトでも継続的に名古屋グランティオスの情報を提供してまいります。

【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第24回 陸上・村社講平、感動を呼んだ果敢な走り

2011年 7月 6日

 圧倒的に強い相手に対し、たとえかなわなくとも果敢に立ち向かっていく姿は、見るものの心を動かす。1936年ベルリン五輪一万メートル決勝は、まさにそうした思いを抱かせるレースだった。
 31人が参加して行われた決勝の“主役”は、優勝者ではなく、敗者となった村社講平。正々堂々、自らの走りに徹し、果敢に戦いを挑んだからこその評価だった。
 身長160センチ余り、体重50キロの村社はスタート直後、200メートル付近でトップに立った。その村社を3人の男が囲む。フィンランドのイソホロ、アスコラ、サルミネン。この段階でその後の激しいでデットヒートを予想したものはいなかっただろう。それほどに当時のフィンランドは長距離王国として君臨しており、また村社は無名だった。だが、予想に反して190センチ前後の大男たちを引き連れるようにして、村社は懸命にトップを走り続ける。たとえ抜かれてもすぐに抜き返し、先頭を譲らない。この走りに12万人の観衆からは「ムラコソ、ムラコソ」の声援が沸き起こった。ラスト1周で力尽き、結果は4位。それから5日後の五千メートルでも途中から先頭に立ったが、最後にかわされて4位に終わる。だが、「ムラコソの走りは勝利にもまさる」と絶賛を浴びたのだった。
 1905年(明治38年)宮崎市生まれ。宮崎中学(現宮崎大宮高)時代は、日本初の五輪メダリストの熊谷一弥を先輩にいただくテニス部員。それが、6キロの全校ロードレースで優勝したことが、その後の人生を変えた。
 中学卒業後は県立図書館に勤務。図書館就職前には2年近く兵営生活も送ったが、図書館勤務時代も通してスパイクを手放したことはなかったという。だが、自信をもって臨んだ32年ロサンゼルス五輪代表最終予選で、学生に敗れ、「少なく共 伯林(ベルリン)大会を目指すならば学生選手たることを痛感」(中央公論 昭和11年11月号)した村社は、中央大からの誘いを受け入れて27歳で進学。1人切りの独学に、組織的な練習が加味され、素質はさらに磨かれていった。ただ集団のペースに合わせて走ることは苦手だったという。序盤から飛び出し、先頭でレースを引っ張る村社の走りは、本格的に陸上を初めて以来続いた“孤独な練習”の名残だったのかもしれない。
 ベルリン五輪を活写し、屈指の傑作といわれる記録映画「オリンピア(第1部・民族の祭典、第2部・美の祭典)」で、この一万メートルの熱戦は村社が最後に力尽きるシーンと大観衆の声援が象徴的に描かれており、いかに村社の走りが見るものの心を揺さぶったかが分かる。=敬称略(昌)

(提供 日本トップリーグ連携機構)

【フラーテル・カップ2011/オープンマッチ開催】

2011年 7月 6日
 去る7月3日(日)9:00より、庄内緑地公園において今年度のフラーテル・カップのオープンマッチが開催されました。小学生の子たちは7月17日からとなりますが、全チームが集まり、特に今回はルール研修会及び審判講習会も兼ねて一日実施されました。非常に多くの受講生が参加し、充実した会となりました。

▼フラーテル・カップ2011 オープンマッチの様子

FC2011オープンマッチ

▼ルール研修会及び審判講習会の様子1

FC2011審判講習会1

▼ルール研修会及び審判講習会の様子2

FC2011審判講習会2

東京における普及活動支援 メイプルズ!

2011年 7月 6日
 名古屋フラーテルホッケーチームを運営するNPO法人愛知スポーツ倶楽部は、地域における一貫指導体制を確立することにより地域の皆さんとの交流を図りつつ社会貢献をしていこうとする団体です。しかし、同様にこの愛知・名古屋以外でホッケーの普及活動を行おうとされている方々についても積極的にできる限りの支援をしていきたいと思っています。今回は東洋英和OGのメイプルズの皆さんがジュニア選手との交流の機会をもつとのことでご連絡を頂きましたので、応援させていただきました。今後も是非継続して頂くことを願います。また、このような小さな活動が全国に広がることを願ってやみません。

▼東京における普及活動支援の様子1

東京における普及活動支援の様子1

▼東京における普及活動支援の様子2

東京における普及活動支援の様子2

▼東京における普及活動支援の様子3

東京における普及活動支援の様子3

▼東京における普及活動支援の様子4

東京における普及活動支援の様子4

▼東京における普及活動支援の様子5

東京における普及活動支援の様子5

▼東京における普及活動支援の様子6

東京における普及活動支援の様子6

トップレベルスポーツクラブマネジメント強化プロジェクトに参加しました!

2011年 6月 29日
 ホッケー日本リーグ機構の所属する日本トップリーグ連携機構が主催する「トップレベルスポーツクラブマネジメント強化プロジェクト」に参加致しました。先日、日本トップリーグ連携機構のプロジェクトメンバーである小山内氏、相原氏、鶴海氏、サポートスタッフの堂園君の訪問を受け、愛知スポーツ倶楽部からは専務理事、GM、クラブマネージャーが参加してクラブ運営のヒアリング及び課題の抽出等を行いました。一歩でも前に進むべく、このプロジェクトを有効に活用していきたいと思っております。

【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第23回 ラジオ体操

2011年 6月 29日

 現在も多くの愛好者に親しまれているラジオ体操が初めて愛宕山にあった日本放送協会(NHK)・東京中央放送局から電波に乗ったのは昭和3(1928)年。郵政省の前身、逓信省簡易保険局が中心となり、国民の健康増進を目的に提唱した。もともとのお手本は米国で、日本で始まる3年前、保険会社が事業の一環として放送を開始したという。だが、戦時色が濃厚となっていくに従い、健康増進という本来の目的から離れ、国民精神発揚の手段として利用されていく。戦後、そんなラジオ体操にGHQは難色を示した。
 「新しい朝が来た・ラジオ体操50年の歩み」(簡易保険加入者協会・発行)には当時、NHK教養部長でGHQと直接交渉した水川清一らの回想が収録されている。水川は「GHQは《一つの号令で300万人が動く。これはやめさせなければならない》という。だからラジオ体操は気分をさわやかにするものだ。さわやかな気持ちになれば、アメリカに対する反抗心がなくなるし、犯罪もおこらない……ということをいったんです」
 存続の危機を打開するために「戦前から続く体操のイメージとは違った体操」を模索していたNHKは昭和21(1946)年4月13日、旧体操の放送を中止し、第一スタジオで新しいラジオ体操の発表会を行った。まず「曲」を製作し、その後に「体操」を振付けるという戦前とは逆の手法で完成させた体操だった。そして女性指導者を起用。その第1号の1人に選ばれた上貞良江は「(女性の起用は)GHQへの配慮の一つだったのでしょう」と振り返る。放送開始は翌14日。上貞の忙しい日々もスタートした。
 朝4時に起きて、赤坂の自宅から内幸町のNHK放送会館まで焼け跡を歩いて通った。生放送だった。上貞は「当時は治安も悪く、何度か怖い目にも合った。でもみんなとても熱心で、こちらも無我夢中でした。(着物の)帯を利用して体操用のシューズを作ったりもしました」。スタジオ内にはピアノの伴奏者と先生役の女性が1
人か2人。「人が前にいた方がよっぽどやりやすい。緊張しました」というが、混乱期、暗い話題の多い世相の中、音楽にのって女性の声で体操が放送されたこと自体が明るい話題でもあった。
 ただ普及は困難を極めた。物資不足、交通難の時代に、どう広めるか。解説書を作成しての巡回指導や講習会を行うが、食糧が配給制でもあり、日帰り可能な地域や、比較的食糧事情の豊かなところにしか行けなかった。それでも講習会からは終戦直後ならではの学校現場の混乱ぶりも垣間見える。上貞はそうした様子を次のように振り返った。
 「私が行った中で一番遠かったのは富山でした。体育館がいっぱいだったことを覚えています。それにどこの会場も学校の先生がほとんどだったんです。戦後の体育教育の混乱に、(ラジオ体操から)何らかの方向性を見出そうと真剣だったんだと思います」
 だが、普及はままならず、昭和3年から終戦時の8日間を除き、放送の続いたラジオ体操は昭和22年8月31日、1年4カ月余りで打ち切られた。戦時中の体操に対する一種の反動もあったのかもしれない。定着させるには難しい時代だった。再開は人々がゆとりを取り戻し、復活を望む声が高まる昭和26年まで待たねばならなかった。=敬称略(昌)

(提供 日本トップリーグ連携機構)