【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第20回 第一回国体

2011年 5月 25日

 街には闇市が立ち、人々は日々の食糧を求めて歩き回っている…、そんな時代だった。戦後の日本スポーツの進展に大きく寄与した国民体育大会(国体)は昭和21(1946)年、戦火を免れた京都市を中心に関西で産声を上げた。夏季、秋季、冬季の3大会のうち先陣を切った夏季大会は8月9日から3日間の日程で、戦後初の日本水泳選手権を兼ねて兵庫・宝塚プールで開催された。
 この年の4月、日大予科2年に進級した古橋広之進は「腹いっぱい食べられれば幸せだった」と当時を振り返る。水泳部の合宿所裏を畑にし、郊外の農家に買出しに行っては転売して食いつないでいたという。
 「(46年に)復学し、また泳ぎ始めてみると、どんどん速くなる。面白くてね、合宿所隣のプールで午前5時ごろから泳いでいたよ」
 国体開催の話を耳にしたのはそんな時期だった。「どんな大会か分からなかったが、日本選手権を兼ねるというので《よし出てやろう》と思った」。ただ飽食の現代からは想像もできない苦労もあった。開催地は兵庫県。汽車賃も宿泊代も食べ物すらない中で、どうやって宝塚まで行くか。古橋は苦笑いを浮かべながら振り返る。「先輩が《俺の言う通りにしろ》というんだ。どうするかというと、汽車には動き出してからデッキにぶら下がる。駅の構内に入る前に飛び降りて、また乗るの繰り返し。下車した町では学校のプールを探して泳いだ。宿直室に泊めてもらえることもあったが、ほとんどが野宿。1週間かけて何とかたどり着いたんだ」
 ところが野宿は到着後も続いた。「明るいうちは宝塚プールで練習し、夜になると川っぺりで寝た。蚊がすごくてね、ふんどしを濡らし体に巻きつけて寝たよ。そうすると涼しいし、蚊も防げる…」という状況で、古橋は四百メートルと八百メートル自由形に出場し、1勝1敗。八百メートルで村山修一(早大)にタッチの差で敗れた。これ以後、昭和25(1950)年8月の日米対抗大阪大会でフォード・コンノ(米国)に敗れるまで、実に4年間、不敗を誇ることになる。
 そしてこの大会は、後に「フジヤマのトビウオ」と称される古橋にとって良きライバルとなる橋爪四郎との出会いも演出した。国体後、古橋は新聞社のイベントに協力し、琵琶湖横断一万メートルと和歌山県での水泳講習会に参加した。和歌山・伊都中学で行われたその講習会で、橋爪と出会い、日大進学を勧めたのだった。
 「復員してきた選手、学生らが一堂に会した国体で勝ったことで、琵琶湖の遠泳にも誘われた。国体はその後の(飛躍への)大きなきっかけになった」。今でこそ国体はその役割自体が議論の対象にもなっているが、あの時代、不世出の英雄の出発点の一つだった。=敬称略(昌)

(提供 日本トップリーグ連携機構)

【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第19回 陸上・西田、大江の“友情のメダル”

2011年 5月 18日

 「あんたらの先輩が美談にしたてたんやけど、そんなことやない。間違えた決定やったから修正したちゅうだけや…」。日本五輪史上あまりにも有名な“友情のメダル”。その主役の一人、西田修平は産経新聞の取材に対し、その由来を意外にもこう語っている。メダル誕生の舞台となったベルリン五輪から60年後の1996年のことだった。
 だが、西田のこうした思いとは別に、ベルリン五輪陸上棒高跳び決勝で演じられた闘いと、試合後、同記録ながら2位となった西田と、3位とされた大江季雄が帰国後に互いの健闘をたたえて、銀と銅のメダルを2つに割り、それをつなぎ合わせて「メダル」を作った行為はまさに“友情”と形容するのがふさわしい。またそれほどの熱闘でもあった。
 1936年8月5日、ベルリン。棒高跳び決勝は、競技開始から4時間が過ぎ、日本の西田、大江と米国のセフトン、メドウスの4人の争いとなっていた。高さは4メートル35。1回目は全員が失敗。2回目でメドウスだけが成功し、3回目に残り3人がバーを落としたことでメドウスの金メダルが決定した。すでにあたりは闇。「寒いのと腹が減ったのとで、もう嫌になりかけていた」と西田は振り返っている。4メートル15に下げた決定戦、西田と大江は跳び、セフトンが落とした。これで日本選手の2、3
位が決まった。当時の規則通りならば順位決定戦を続けねばならない。だが、日本人同士とあって順位決定を日本に任せよう、との提案がなされ、4メートル35の前の4メートル25を、1回目でクリアした西田を2位、2回目に越えた大江を3位とする届け出がなされ、公式順位になったという。
 だが、西田は発表された成績に耳をうたぐった。「同記録だから、2人とも2等」と思っていたというのだ。精も根も尽きるほどの長時間に渡る熱闘と、この思いが“友情”と呼ばれるメダルを生んだ。
 西田には2人の出会いから始まる思いもあったろう。西田、早大1年の冬のことだ。大阪で開かれた陸上競技講習会に、先輩の織田幹雄に連れられて西田はコーチを務め、そこで素質ある青年に目を留めた。京都・舞鶴中学(現・西舞鶴高)3年の大江だった。「卒業したらワセダに来いよ」と声をかけたという。だが、大江は4年修了で慶大予科へと進む。「むこうのマネージャーが座り込みまでやったという。4年だというんで安心していたんだなあ」。西田の述懐だった。それでも学校の垣根を越えて切磋琢磨していったライバルだったからこそ、「2人とも2等」へのこだわりが生まれたのだろう。
 1932年ロサンゼルス五輪での西田の銀、そしてベルリンでの西田、大江の銀、銅と続き、次こそ金メダルという期待は、実現しなかった。40年東京五輪は近づく戦火で返上、中止となり、西田も大江も戦地に趣いたのだ。そして大江は41年12月24日、フィリピンで帰らぬ人となる。27歳だった。生還した西田はその後、大江の分まで陸上の普及に尽力したことは言うまでもない。=敬称略(昌)

(提供 日本トップリーグ連携機構)

平成22年度のトップリーグトロフィー表彰!

2011年 5月 18日
 ホッケー日本リーグ機構の所属する日本トップリーグ連携機構が毎年優秀なGMを表彰する「トップリーグトロフィー」が、決定し表彰式が行われました。ホッケーリーグからは、今年、ALDER飯能の栗原実GMが受賞いたしました。本当におめでとうございます。ALDER飯能は間違いなくこれから飛躍の時を迎えることと思います!お互いに頑張りましょう!

▼平成22年度のトップリーグトロフィー表彰の様子

JTLトップリーグトロフィー表彰

【ホッケースクール2011/運営会議開催】

2011年 5月 18日
 さる5月12日(木)19:00より、名古屋市中区で今年度のホッケースクールについて運営会議を行いました。例年通り、女子の経験者を中心としたスクールと、初心者を中心としたスクールすることになります。もちろん、県内、県外等さまざまな試合に参加させていこうという方向性は変わっておりません。特に今年は、小学校を卒業した子たちをどのように中学生になってもホッケーを行える環境を作るかということが大きなテーマとなっています。愛知スポーツ倶楽部は、この問題に正面から取り組んでいくことを考えています。

フラーテルファミリー7号が発行されました!

2011年 5月 11日
 しばらく発行が滞っておりました会員の皆さんとフラーテル・クラブをつなぐ、フラーテルファミリー7号が発行されました。会員の皆様には、ほどなく届くと思いますので、ご期待下さい。なお、1週間たっても届かないという方がいらっしゃいましたら、ご遠慮なく当クラブ宛ご連絡下さい。

フラーテル応援企画!第1段

2011年 5月 11日
 ゴールデンウィーク後半にスタートした男子のホッケー日本リーグ。フラーテルは、岐阜県グリーンスタジアムにおいて、岐阜朝日クラブと立命館大学との2試合を行いました。この二日間、愛知県内でホッケーを楽しんでいる子供たちに、グランドまで応援に来て頂きました。フラーテルは、2試合とも勝利し見事に子供たちの期待にこたえることができました。試合の後には、フラーテルの選手たちと一緒に記念撮影。今年、第1段のフラーテル応援企画でした。

▼5月4日
フラーテル応援1

▼5月5日

<フラーテル応援2

【フラーテル・カップ2011/実行委員会開催】

2011年 4月 27日

 4月24日(日)17:00から、名古屋市中区において「フラーテル・カップ2011」の実行委員会が開催されました。いつも通り前年度の各リーグ代表者より、昨シーズンを振り返って各リーグ報告と今後の改善案が提案されました。そして、2011年度の運営方針、実行委員・組織体制・運営規程・参加費等が検討され、最後に各リーグに分かれてそれぞれの運営方法、開催予定等の打ち合わせを行いました。トップリーグにおいては、11人制の更なる導入の推進について検討されました。ミックスリーグでは、参加チームの増大による2リース制への移行と運営面などの改善が図られます。ジュニアリーグでは、更に子供たちにエキサイティングな体験をしてもらおうといろいろな知恵が出されていました。今年も会議が終わったのは21:30過ぎ。実行委員の皆さん、今年も熱いですね。今シーズンも盛り上げていきましょう!

【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第18回 体操・加藤澤男、敗戦から得た収穫

2011年 4月 27日

 「勝っていたら、天狗(てんぐ)になっていた」-。1977年に引退するまでに五輪へ3度出場し、日本人最多の金8個を含む計12個のメダルを獲得した。誰もがうらやむ数々の栄光。だが、加藤澤男は意外にも3度目の五輪、個人総合3連覇のかかったモントリオールで味わった敗戦に、「救われた」という。
 1968年メキシコ五輪では、個人と団体総合、床で金、つり輪で銅。初出場ながら堂々たる結果を残し、一躍脚光を浴びた。他方で、大会中は自らの演技に集中するために、他の演技や自己得点を見ないように徹底した。「まるでロバさんだった」という。
 続くミュンヘン五輪に向けては、「(たとえ)他の選手が気になっても、自分の演技に集中できるようにしないと」と、自らが感じていた精神面の課題を克服して臨んだ。その成果だろう。本番の個人総合の優勝争いでは、アンドレアノフ(旧ソ連)に2種目を残し0.025点差を付けられながらも、ライバルの演技を冷静に観察。「守りに入っているように見えた」と分析し、相手の演技を自分への弾みにした。「負ける気がしなかった」という自信に満ちた演技で、前大会を上回る5個のメダルを獲得した。
 気がつけば、メキシコとミュンヘンの両五輪で、史上2人目となる個人総合連覇を果たしていた。次の五輪は、史上初の個人総合3連覇がかかっていた。だが、メダリストとして生活できる時代ではなく、モントリオール五輪への出場は悩んだという。「妻も子供もいる。いつまでもこうやっているわけにはいかないし、3回目は辞めようか…」。家族のことを考えると、引退の二文字さえ頭をよぎった。両足をねんざし、周囲からは「もう終わりだろ」。そんな声も聞こえてきた。
 しかし、療養中に競技を離れて浮かんできたのは、「3連覇できるチャンスはそうない。これを逃してなるものか」という勝利への欲求だった。競技生活の集大成をかけて臨んだ五輪。個人総合での『金』は至上命題となった。
 結果は、加藤が2位でアンドレアノフが優勝。「彼は前と同じ失敗はしなかった。追っても、追っても、追いつかなかった」。ライバルの演技は、完璧(かんぺき)だった。「国旗掲揚で右側を向いたら、あいつの尻しか見えなかった。悔しい気持ちがね、シャクで、シャクでどうしていいか分からないくらい、発狂しそうなくらいだった」。
 気持ちの整理をするために費やしたのは、3カ月。その末に出した答えはこうだった。
 「僕は8回表彰台の一番上に立ち、自分の気持ちだけを考えてきた。でも、負けた人が僕と同じように悔しい思いをしていたのだと分かった」
 勝ち続けてきたからこそたどり着いた悔しさの解釈だった。「それまではすがすがしい気持ちで君が代を聴いていたが、逆に負けたことで助かった。人の気持ちになれてよかった」。前人未到の『金』を逃した影で、大切なものを掴んだという実感があった。=敬称略(み)

(提供 日本トップリーグ連携機構)

リズムトレーニングの成果報告会開催!

2011年 4月 27日

 昨年、愛知スポーツ倶楽部とネットワークされた各総合型地域スポーツクラブが、慶応大学と共同で行ったリズムトレーニングの成果報告会が、4月26日(火)19時から名古屋市中区で行われました。非常に興味深い内容で、リズムを使うことの意味合いがクローズアップされた形となりました。両者は、更に改善を図るための新たな取り組みについて合意いたしました。今年度以降、昨年以上に突っ込んだ形でリズムとレーニンを研究していくことになります。

【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第17回 スケート・鈴木恵一

2011年 4月 20日

 「トシをとり、力の限界がきました」。その顔を涙がおおう。72年札幌冬季五輪、スピードスケート男子五百メートル。レースを終えた1人の男が、引退を宣言した。五輪は様々な人間模様を演出するが、時としてそれは、残酷なドラマともなる。札幌五輪で選手宣誓の大役を担った鈴木恵一も、五輪に泣いた1人。男子五百メートルで世界選手権優勝5回、世界記録更新2回。一時代を築き、「世界最速の男」として広く名を知らしめながら、五輪では一度も表彰台に上ることはなかった。
 「収入があると遊んでしまう」と王子製紙を退社し、練習方法への不満から明大スケート部を飛び出すなど、とことん自分の”スケート道”を追求した鈴木は、初出場の64年インスブルック五輪で2位と0秒1差の5位入賞を果たす。その後も順調に進化を遂げ、64年、65年、67年と世界選手権で3度の優勝。そして充実期に迎えた68年グルノーブル五輪は「優勝候補の大本命、最悪でもメダルは確実」のはずだった。
 ところが、レースの1時間前、不運が鈴木に襲いかかる。ウォーミングアップ中に小石を踏み、スケート靴の刃が欠ける緊急事態。「俺はこんなことをするために、これまで努力してきたのか」。刻々とスタート時間が近づくなか、泣きながら刃を研ぎ直したが、間に合うはずもなく、結果は8位。4年間の血のにじむような努力が無に帰し、己の運命を呪うしかなかった。
 失意の中一度は引退したが、母国開催の札幌五輪を控え、他に有力選手がいないことから、現役に復帰。母国にメダルをもたらすため、厳しい練習を再開した。ところが、腰痛などに加え、ゴミを燃やした際にスプレー缶の破片が当たり、目を痛めるなど、ここでも不運はついてまわり、現役最後のレースは、19位。最後まで五輪の女神が鈴木に微笑みかけることはなかった。
 鈴木は現在、日本スケート連盟の強化部長として、2010年バンクーバー五輪に向け、日本チームを支える。選手としては果たせなかった夢を、いまなお追いかけている。=敬称略(謙)

(提供 日本トップリーグ連携機構)