【コラム】次世代に伝えるスポーツ物語 第16回 野球・最後の早慶戦

2011年 4月 6日

 1903(明治36)年から始まった華の早慶戦。私学の雄、早稲田と慶応義塾による野球の対抗戦は日本の学生スポーツ創始期の象徴で、百年を超える歴史の中での逸話は数え切れない。中でも歴史に翻弄された「最後の早慶戦」はその最たるものだろう。
 1943(昭和18)年、第二次世界大戦の真っ只中。アメリカ発祥の野球は敵性スポーツとみなされ、政府の弾圧を受けた。1925年秋からリーグ戦が開始された東京六大学野球にもついに4月、解散命令が出された。9月には法文系学生の徴兵猶予も解除され、選手たちも前線へ送られることになる。関係者の思いはひとつ。「もう一度、早慶戦をやりたい」。慶応義塾の阪井盛一主将は「両校の学生にとって一番の思い出になる壮行会は早慶戦しかない」と小泉信三塾長に直訴。早稲田大学野球部の初代監督で「学生野球の父」と呼ばれる飛田穂洲も、「日本の学生野球は一つの道だ。野球道である」との姿勢を貫き、練習を続けた。早慶関係者の再三の説得に、最終的には早稲田の野球部が早大当局の反対を押し切り、10月16日の開催を決定した。
 決戦の地となった早稲田の当時の練習場、戸塚球場(東京都新宿区)には、多くの学生やファンが詰め掛けた。試合は10対1で早稲田が圧勝したが、勝敗は問題ではなかった。試合後のエール交換で慶応義塾が早稲田の校歌「都の西北」を歌えば、早稲田も慶応義塾の第一応援歌「若き血」で応え、互いに好敵手を称えあった。
 さらに小さな歌声が発端となって、「海行かば」の大合唱が球場を包み込んだ。
 海行かば 水漬く屍
 山行かば 草生す屍
この「最後の早慶戦」後、学生たちは戦場へ向かう。だが、戦争という現実も、敵も味方もこの瞬間には関係なかった…。
終戦からわずか3ヵ月後の1945(昭和20)年11月18日、早慶戦は復活する。終戦直後の混乱期にもかかわらず、これだけ早く早慶戦が復活できたことには理由があった。「最後の早慶戦」開催を目指していた当時、早稲田のマネージャーだった相田暢一が「大学に残る後輩には心おきなく野球を続けてもらいたい」と東京中の用具店をあたってバット300本、ボール300ダースを集めた。この貴重な用具が早稲田野球部の寮に保管され、戦火を免れて終戦後、各校に配られたのだ。そして相田は復活した早慶戦、この試合から監督を務めた。 
 「最後の早慶戦」から60余年が経過した2007年、東京六大学野球に新たなスターが誕生した。前年、夏の甲子園制覇の立役者となった早稲田の斎藤佑樹投手が1年生ながら春のリーグ戦開幕投手を務め、その年の春夏リーグ戦連覇や全日本大学野球選手権優勝に貢献した。くしくも2008年には、「最後の早慶戦」を題材にした舞台や映画も上演・上映される。久々に沸き立つ大学野球人気も、先達の築いた道があってこそ、である。=敬称略(有)

(提供 日本トップリーグ連携機構)

 【コラム】「次世代に伝えるスポーツ物語」 第15話 レスリング・日本レスリングの父、八田一朗

2011年 2月 9日

 「剃るぞ!」。ふがいない負け方をした選手に浴びせたこの“脅し文句”。生みの親は日本レスリングの育ての親、八田一朗である。始まりは、目標に遠く及ばない銀メダル1個に終わった1960年ローマ五輪後に、八田の命令で役員、コーチ、選手が頭の毛はもちろん、下の毛も剃って再起を誓ったことからだという。
 「剃るぞ!」ばかりではない。「ライオンとにらめっこ」や、合宿では夜通し電灯をつけたままマット上で寝るなど、「八田イズム」と呼ばれたスパルタ教育は枚挙にいとまがない。だが、八田は「精神力」ばかりを追い求めた指導者であった訳ではなかった。
 日本レスリング協会会長の福田富昭は「そりゃ練習は厳しかった。でも強くなるにはどうしたら良いかを常に考えていた方で、科学的、合理的でもあった」と振り返る。どういうことか。福田は続ける。「まず選手に負けた言い訳をさせなかった。選手は負けると、その理由を実力以外のところに求めたがる。例えば『夜眠れなかった』とか、海外の試合では『コメが食べられず、力が出なかった』とか…。すると、八田さんは普段からどんな状況でも眠れるようにすればいいと、実際に合宿で実践する」というのだ。ライオンとのにらめっこにしても、狙いは話題を提供することだったらしい。マイナー競技だったレスリングに注目を集めることで、「選手を発奮させたかったのでしょう。レスリングに関する記事は批判も含め、すべて歓迎でした」というのだ。
 八田がそこまでレスリング強化に打ち込んだ理由はどこにあるのか。八田とレスリングの出会いは、早大柔道部が柔道普及のために米国遠征した1929年春に遡る。メンバーの1人だった八田が体験したワシントン大学レスリング選手との他流試合が、その後の人生を決定づけることになった。双方とも柔道着を着ての試合は早大の圧勝だったが、道着を脱いでの試合では散々に痛めつけられたのだ。初めて接する格闘技に、まるで歯が立たぬ惨敗。八田は帰国後、学内でレスリングの重要性を説いて回る。柔道にとってもレスリングを研究しておくことが役に立つとの考えでもあったが、異端児扱いされたことは想像に難くない。ならば「オレが」とばかりに、31年に早大にレスリング部を創部。翌年のロサンゼルス五輪には八田自らフリースタイル・フェザー級の選手として出場するが、惨敗。それでも、ここで引き下がる訳にはいかない。指導者として闘志を燃やし続けた。
 ロンドン留学の経験もある八田は、選手に留学を奨励。実際、米国はもちろん、レスリングの強い西アジアなどにも盛んに選手を送ったほか、英語の勉強やテーブルマナーにもうるさかったという。「剃るぞ!」からは想像できない一面だ。
 努力は実る。64年東京五輪。レスリング会場となった駒沢体育館は5個の金メダルに沸いた。表彰式後、白髪の紳士が宙を舞う。八田だった。その後、参院議員1期を務めるなど、スポーツ界の地位向上に尽力し、83年に76歳で他界。その一徹な生き方は、誤解を生むこともあったが、レスリングを日本の“お家芸”に育て上げた最大の功労者であることは間違いない。=敬称略(昌)

【コラム】「次世代に伝えるスポーツ物語」 第14話 フィギュアスケート・伊藤みどり

2011年 2月 2日

 五輪の開会式で聖火を灯す大役は、開催国が誇る往年の名選手が担うことが通例となっている。1998年長野冬季五輪でその大役を務めたのは、92年アルベールビル五輪銀メダリストの伊藤みどり。安藤美姫の4回転ジャンプ、浅田真央のトリプルアクセル(3回転半)と、いまや高度なジャンプ抜きでは世界の頂点を狙うことができない女子フィギュアスケートだが、かつては芸術性だけが重んじられ、ジャンプ力が注目されることはなかった。その流れを変え、フィギュアスケートをよりスポーツらしくしたのが、伊藤だった。
 4歳でフィギュアスケートを始めた伊藤は、その才能を見抜いた山田満知子コーチの自宅に小学1年生から住み込み、徹底した指導を受け、1980年に小学4年生で出場した全日本選手権で3位に入り、あっという間に世間の注目を集める存在になる。高々と跳ね上がり、次々とジャンプを決める演技スタイルと愛くるしい笑顔は、海外で「TSUNAMI(津波)ガール」との称号を得た。そして、88年の愛知県選手権では、女性として史上初めてトリプルアクセルに成功し、翌89年の世界選手権ではアジア女性初の金メダルを獲得。続々と歴史を切り開いていった。
 その競技生活のクライマックスは92年のアルベールビル五輪フリー。伊藤は演技前半に予定していたトリプルアクセルで転倒してしまう。だが、「五輪でどうしても跳びたかった」との思いから後半に再び挑み、見事に成功。日本フィギュア界に初のメダルをもたらしたが、順位よりも、疲れがたまり成功率が低くなる後半にあえて再びトリプルアクセルに挑んだ不屈の精神こそが、世界中に感動を与えた。
 伊藤がトリプルアクセルを成功させてから今年で20年が経ち、現在は、伊藤と同じ山田門下生の中野友加里、浅田真央の2人が、トリプルアクセルを得意技にして世界の頂点を目指している。伊藤の努力と功績はしっかりと後輩に影響を与え、日本フィギュアスケート界の繁栄を陰で支えている。=敬称略(謙)

【コラム】「次世代に伝えるスポーツ物語」 第13話 ソフトボール・4年の歳月が育んだ絆

2011年 1月 26日

 漆黒の空から落ちてきた雨が、緑の芝生を濡らしていた。2000年9月、シドニー五輪ソフトボール決勝。米国を相手に1-1で迎えた延長八回裏一死一、二塁、打球の行方を目で追ったマウンド上の高山樹里が、息をのんだ。
 好守で支えてきたレフト小関しおりの動きがぎこちない。落下点で構えたグラブが大きく動き、仰向けに倒れる姿が、スローモーションのように見えた。グラブからボールは転がり落ち、必死の返球も届かなかった。
 「(濡れた芝は)関係ありません。判断ミスです…」。責任を背負いこむ小関の肩を、仲間たちが優しく抱いた。そして監督の宇津木妙子も「選手たちは本当によくやってくれた。敗因は継投時期を誤った監督です」。4年の歳月をかけて作り上げた絆は、夢が潰えた瞬間も揺るがなかった。
 チーム一丸、全員で戦おう、がモットーだった。4年前のアトランタ五輪は4位。そのアトランタの半年前には前監督が突然辞任。その後の監督人事も迷走し、シドニーに向けてはどん底からの船出だった。
 実際、アトランタ後に代表チームを任された宇津木監督は、選手の目的意識の低さに驚かされたという。「あいさつさえまともにできない選手もいる。何のためにソフトボールをやっているのかが見えない」-。
 生活態度の改善から始めた。プレーでは基本の徹底を図った。練習後の後片付けから、合宿所のスリッパの整頓まで…。合宿も年間100日にも及んだ。「うるさかったと思いますよ。練習で疲れているのに、何でそこまでとね。陰では随分悪口も言われたでしょう」。だが、それでも選手は付いてきた。「この人を信じれば、強くなれる」と。厳しさとともに、愛情があったからだろう。そしてそんな監督を最年長の37歳(当時)、宇津木麗華が支えた。母親と姉御。この2人がチームの求心力でもあった。
 試合後の記者会見。決勝エラーをした小関に質問が集中した。胸が詰まり答えられない小関に代わり、“姉御”は「私たちは全員で一つのチーム。もちろん、小関は悲しいと思う。でも誰のせいでもないんです」。そして「金メダルには届かなかったが、胸を張りたい。監督にすごく感謝している」。
 表彰式後のベンチ前で、宇津木は監督に自分の銀メダルをかけた。それを待っていたかのように、始まった監督の胴上げ。悲願の金メダルにはあと一歩及ばなかった。だが、目標を一つに、気持ちを一つに戦った結果の銀メダルだった。=敬称略(昌)

【コラム】「次世代に伝えるスポーツ物語」 第12回 陸上・人見絹枝

2011年 1月 12日

 「日本女性初のオリンピック選手」にして「日本女性初のメダリスト」、さらに19歳で大阪毎日新聞社に入社した「日本初の女性スポーツ記者」-。昭和初期の陸上選手にしてジャーナリストだった人見絹枝は「スーパーウーマン」と称される。周囲より頭一つ抜きん出た体格も、行動力も、意志の強さも…どれをとってもまさに「規格外」な女性だった。
 1896年、近代オリンピックの記念すべき第1回大会、アテネ五輪は男性だけの祭典だった。女性が参加を認められたのは第2回大会のパリ五輪からだが、競技はテニスとゴルフの2種目のみ。22年に女性の陸上選手だけを集めた「万国女子オリンピック大会」が開催されたのをきっかけに、1928年の第9回アムステルダム五輪でようやく、100、800メートルと400メートルリレー、走り幅跳び、円盤投げの5種目に限り、女子の陸上種目が認められた。このとき選手兼記者として参加した人見は21歳。日本代表選手団で唯一の女性選手でもあった。
 待ち焦がれた晴れ舞台。だが、得意種目の100メートルで準決勝敗退という結果に終わってしまう。しかしそこからが常人と違うところだった。「このままでは帰れない」と公式試合の経験のなかった800メートルに出場し、ドイツのラトケとのデッドヒートの末、2位でゴール。タイムはラトケが2分16秒8の世界新(当時)、人見が2分17秒6。公式戦初レースとは思えない戦いぶりだった。
 銀メダル獲得には後日談がある。800メートルの決勝レース中、他の選手にひざをスパイクされていたのだという。予想外の“登板”にアクシデントが重なったにもかかわらず銀メダルに輝いたというのも、気力のなせる技だろう。必死さが伝わってくるようだ。
 記録づくしの人生の終末はしかしながら、意外なほど早く訪れた。1930年の長期遠征中に体調を崩し、翌31年8月2日、肺炎のためわずか24歳7カ月で急逝。命日は奇しくも、壮絶なデッドヒートを演じたアムステルダム五輪、女子800メートル決勝の日と同じだった。
 女子陸上の発展を願ってやまなかった人見は、生涯でいくつもの本を著した。自伝に関しては、21歳で「スパイクの跡」を、そして自身の死の直前に「ゴールに入る」を刊行。本の結びはプラハから神戸港に戻ってきたシーンだった。
 「さようなら! 皆さん! とうとう私等の仕事も一切終わりました。さようなら! 長い旅でしたね」
 自分の最期を予感していたかのような悲しい一文だが、実は、自分の中で何かをやり遂げた達成感から出た言葉だったのかもしれない-。
 
=敬称略(有)
 
(日本トップリーグ連携機構提供)

【コラム】「次世代に伝えるスポーツ物語」 第11回 競泳・前畑ガンバレ

2010年 12月 24日

 「前畑がんばれ、がんばれ、がんばれ…」
 1936(昭和11)年のベルリン五輪を語るとき、いや日本の五輪史を語る上で、このフレーズとともに、女子200メートル平泳ぎで日本女性初の金メダルを獲得した前畑(結婚して兵藤に改姓)秀子をはずすことはできない。
 前畑の金メダルへの道のりは4年前のロサンゼルス五輪にさかのぼる。同種目で前畑はいきなり銀メダルを獲得。当時18歳の前畑にとっては想像以上の好結果で、「これで引退できる」と胸を張って帰国した。ところが、永田秀次郎・東京市長からは「なぜ、金メダルを取ってくれなかったのだね。この悔しさを4年後のベルリンにぶつけてくれ」と予想外の言葉で迎えられた。さらに全国から届いた励ましの手紙も後押し、前畑はその後の4年間を「日本のために」、水泳にささげることを決意した。
 練習は壮絶だった。1日2万メートル泳ぎ、スタートの練習のやり過ぎで足の指から血が出ても、練習をやめなかった。ひたすら練習に打ち込んだ日々。そんな過酷な練習はベルリン五輪前年の大会で世界新記録を生む。手応えを感じていった。
 最大のライバルはドイツのゲネンゲルだった。ベルリン五輪はナチス・ドイツにとって国威発揚の格好の舞台であり、地元での金メダルはゲネンゲルにとっても絶対命題だった。一方、重圧がかかっていた前畑も、「負ければ生きて日本に帰ることはない」。まさに互いに国家の期待を背負っての戦いだった。
 決勝は、ナチスのヒトラー総裁が見守り、緊張感が漂う中で行われた。予想通り2人の一騎打ちとなった後半100メートル、故河西三省アナウンサーによるあの名実況が生まれる。「…ターンしました…あと40、前畑がんばれ、がんばれ、がんばれ」。実況中の「がんばれ」の回数は、実に24回。河西アナが代弁した国民の願いは優勝という最高の形で結実した。「…勝った、勝った、勝った、前畑勝ちました、前畑勝ちました」。1着前畑、3分3秒6。2着ゲネンゲル、3分4秒2。前畑とゲネンゲルはプールで堅い握手を交わし、互いをたたえ合った。
 前畑は1995(平成7)年2月に80歳で亡くなった。ゲネンゲルも前畑の後を追うかのように、同じ年の8月に83歳で他界した。五輪後もテレビ番組の企画などで何度か再会し、生涯の友となった2人。天国でも一緒に水泳を楽しんでいるだろうか。
 =敬称略(有)
 
(日本トップリーグ連携機構提供)

【コラム】「次世代に伝えるスポーツ物語」 第10回 体操・遠藤幸雄、史上初の個人総合金メダル

2010年 12月 15日

 「むしろ海外でやる方が楽だと思った」。五輪で日本体操史上初の個人総合優勝を成し遂げた遠藤幸雄は当時をこう振り返る。後輩たちが28年ぶりの団体優勝を果たしたアテネ五輪から40年前、1964年東京五輪のことだった。
 ローマ五輪で団体総合優勝を果たし、続く東京では団体連覇は当たり前、個人総合も、という期待は大きく膨らんでた。さらに個人的な思いも加わった。ヘルシンキ五輪の52年。秋田工高1年の遠藤は、市内で行われた郷土出身選手による体操の五輪壮行会で、「体操ニッポン」を支えた小野喬の華麗な演技に目を奪われた。この“出会い”が体操に向かう原動力になった。高校を卒業後、小野の母校、東京教育大(現筑波大)に進学し、体操に打ち込んでいく。そんな遠藤にとって、個人総合は特別な種目だった。目標としてきた先輩、小野が1956年メルボルン、60年ローマと2大会連続で、ソ連(当時)勢にいずれも0・05差で金メダルを阻まれ、タイトルを逃していたからだ。
 重圧に押しつぶされそうになる気持ちを鼓舞して臨んだ本番の舞台。遠藤は5種目を終えてトップ。残る最終種目は苦手のあん馬だった。「もともとあん馬は(みんなに)心配を掛けていた。それでも1点近く差があり、余裕あると思ったんが…」。2度のミスを犯す失敗。「演技を終えたあと、なぜか子供のころに結核で亡くなった母の顔が浮かび、心の中で『何とかしてくれ』と祈ったことを覚えている」。9歳で母親を亡くし、中学、高校と保育院で育った遠藤が、肝心要なところで頼ったのが亡母だった。結果は2位に「因縁」の0・05差をつけての金メダルだった。
 悲願のタイトル。だが、涙は出なかったという。表彰台で瞳に熱いものが浮かんだのはむしろ平行棒で金メダルを獲得したときだった。種目別は個人総合でミスをしたあん馬を除く5種目でメダルの可能性があったが、「残すは平行棒と鉄棒だけ。個人総合優勝者が種目別を1つも取れないのでは情けないと感じていた」からだ。
 平行棒金メダルには後日談がある。「会場が沸いてね。理由を確認してもらうと、女子バレーボールが金メダルを取ったという。『河西さんやったな』と思ったら、ふっと肩の力が抜けてね。そのお陰かな…」。人懐っこい笑みが浮かんだ。

=敬称略(昌)

(日本トップリーグ連携機構提供)

【コラム】「次世代に伝えるスポーツ物語」 第9回 ラグビー・“大西魔術”

2010年 10月 20日

 試合後のグラウンドで、選手が次々と観客に胴上げされる。夢のような一夜だった。突き刺さるようなタックルを大男たちに浴びせ続け、目の覚めるような速攻で相手陣に攻め込み、ラグビー創始国のイングランドに、日本代表が3-6の大善戦。1971年9月28日は、日本ラグビーの輝かしい歴史の1頁を、”大西ジャパン”が刻み込んだ日として、いまも語り継がれている。ラグビーは、体格に恵まれない日本人には不利な競技といわれる。だが、そんな定説に正面から挑み、結果を残したのが、大西鐵之祐だった。
 フランカーとして早大ラグビー部で活躍した大西だが、指導者として一層の輝きを放った。伝説が始まったのは、1962年。関東大学対抗戦Bに転落した母校を救うため、2度目の監督就任を引き受けると、その年にBリーグで全勝優勝し、伝統の早明戦ではAリーグで全勝だった明大を撃破。その大躍進は”大西魔術”と形容されたが、海外のラグビー理論の研究を幅広く行い、独自の戦法を築き上げる才に長けた闘将がもたらした当然の結果だったといえる。
 1966年には日本代表監督に就任。そこで大西ラグビーは、大きな花を咲かせる。体格で劣る日本人が、いかにして世界で戦うべきか。日本人の武器は何か。そこから導き出された理論が「展開、接近、連続」だった。ボールを早く展開し、相手にぎりぎりまで接近。それを継続する。筋力では劣っても、小回りが利き、持久力に優れた日本人の特性を生かすために-。説得力ある言葉を、情熱でもって語る指揮官がいれば、チームは1つにまとまる。大西ジャパンは1968年6月、オールブラックスジュニアを23-19で破り、1971年9月のイングランド戦での善戦という結果を残した。
 サッカー日本代表の岡田武史監督は今年1月、この「展開、接近、連続」の戦法を導入する方針を明らかにした。秩父宮が揺れた夜から36年以上が過ぎたいまも、稀代の指導者が遺した理論は、競技の垣根さえ乗り越えた日本スポーツ界の指針として、燦然と輝いている。=敬称略。(謙)

(日本トップリーグ連携機構提供)

【コラム】「次世代に伝えるスポーツ物語」 第8回 ボクシング・「たこと原田」の友情

2010年 10月 6日

 日本中がプロボクシングに熱狂していた1960年。東京・笹崎ジムのホープ、原田政彦は、若手選手の登竜門「東日本新人王トーナメント」の準決勝で、同じジムの親友、斎藤清作と対戦する羽目になった。日ごろから練習を共にする選手同士の試合は、ジムにとってはいわば教え子のつぶしあい。ボクシング業界では、敬遠される風潮があった。
 「すまないが、お前は出ないでほしい」。ジムの会長は、原田のいない時を見計らってひそかに斎藤を呼びつけ、棄権を命じた。原田よりは3歳年上。だが実力で劣り、そして、あまりに優しい性格を見通しての、非情の通告だった。
 原田はジムの期待に応え、トーナメントで見事優勝。その後「ファイティング原田」とリングネームを変え、フライ級、バンタム級の2階級で世界チャンピオンになり、一躍スターダムにのし上がっていく。一方の斎藤は日本王者にはなれたものの、世界への夢はかなわず、23歳の若さで静かにリングを去る。気を使わせまいと周囲に隠していたが、実は子供のころに左目の視力を失っていた。そのため、相手のパンチがよけられず脳に重いダメージを負い、言語能力や記憶力が衰える「パンチドランカー症状」に苦しんでいた。
 ボクシングで大成できなかった斎藤は、「たこ八郎」と名乗るコメディアンに転身。パンチドランカーでせりふが覚えられない苦労はあったが、いちずな努力家と人の良さから、タモリら先輩芸能人にかわいがられた。そして数多くのお笑い番組や映画に出演し、人気を博していった。
 引退後はジムを経営し、指導者としても活躍した原田は誰よりも斎藤の成功を喜んだという。ボクシングを離れても、いつも笑顔を絶やさない親友だった。だからこそ、心の奥に引っかかり続けていた、あの時の負い目。「本当に、本当に悔しかったはず。それなのに彼は人生で一度だって、僕に恨み節をいったことはなかった」。
 1985年7月24日。新聞夕刊に1本の訃報(ふほう)記事が載る。「たこ八郎さん急死 酔って海で泳ぐ」。人気絶頂を迎えた44歳。海に出かけた仲間たちに、前日に原田と遊んだことをうれしそうに語っていたという。=敬称略。(国)

(日本トップリーグ連携機構提供)

【コラム】「次世代に伝えるスポーツ物語」 第7回 柔道・山下泰裕とラシュワン

2010年 9月 15日

 世界最強の柔道家、山下泰裕は焦っていた。1984年のロサンゼルス・オリンピック大会、無差別級決勝戦。日本のお家芸として、エースに敗北など許されない。その重圧の中、2回戦で右足を負傷した。準決勝までは持ちこたえたが、痛みはもはや限界に達していた。決勝の相手はエジプトのモハメド・ラシュワン。体重140キロの巨漢に、力の入らない右足を攻められたら…。結果は、容易に想像がついた。
 試合開始の合図。早々にラシュワンが投げ技の「左払い腰」を仕掛けてくる。その瞬間、山下は体を引いて相手の投げをかわし、バランスを崩した相手を床に組み伏せた。押さえ込みの「横四方固め」。立つ力は、右足には残っていない。勝つにはこれしかない。上半身の筋肉をきしませ、必死に押さえつける。10秒…20秒…。ラシュワンの両腕の力が、観念したかのように緩んだ瞬間、やっと勝利に気がついた。
 子供のように、顔をくしゃくしゃにして喜ぶ山下。だが、表彰台のてっぺんに上ろうとしたが、右足に力が入らない。無理やり足を上げようとしたそのとき、誰かの太い腕が横から伸びて、自分の身体を支えた。傍らを見やると、ついさっき打ち負かしたラシュワンが静かに笑っていた。
 ラシュワンは、けがのことを知っていた。エジプトは柔道の強い国ではない。日本人の師匠を招き、嫌というほど練習を重ねてきた。世界最強の山下を倒せば、エジプトでは英雄になれる。豪華な家、高級車…あらゆる富と名誉が、金メダルを取れば手に入ることは分かっていた。
 だが、師匠たちの立てた作戦を、ラシュワンは試合で実行しなかった。正々堂々と、全力で戦い敗れたことは間違いない。ただ、その作戦だけは受け入れなかった。「後悔はない。今、あの時に戻っても、そうはしないだろう」。堂々と、後に語っている。
 ラシュワンが試合で仕掛けたのは「左払い腰」。師匠たちが指令を下したのは「右」の払い腰。つまり、拒否した作戦にはこんな意味合いだった。
 「山下の、けがをした右足を攻めろ」―。=敬称略(国)
   
 (日本トップリーグ連携機構提供)