【コラム】「次世代に伝えるスポーツ物語」 第6回 ラグビー・出会いが変えた人生

2010年 9月 8日

ケンカで学校を支配するはずが、なぜかジャージを着て、楕円形のボールを追いかけていた。いや、追いかけさせられていた、と言ったほうが正確だ。1976年春。伏見工業高校ラグビー部1年、山本清悟(しんご)。中学時代、京都じゅうに名をとどろかせた札付きの不良だった。
 中学3年時ですでに身長180センチ、体重90キロの筋骨隆々の体格。弟分を引き連れ繁華街「弥栄(やさか)」でケンカに明け暮れ、酒をあおった。大人を簡単に打ち負かす強さに、「弥栄の清悟」と恐れられた。
 勉強など無用。導かれるように、当時、県内中の不良たちが集っていた伏見工高に入学した。窓ガラスは割られ、教室にたばこの吸い殻が散乱する荒廃した世界。腕力で、その頂点に君臨するつもりだった。
 だが、入学直後、なれなれしくよって来た風変わりなオヤジのせいで、予定は大幅に狂った。「お前、ケンカ強いやろ。ラグビーはルールのあるケンカ、そんなもんや」。ラグビー部監督の山口良治だった。荒れた学校を、一人で立て直そうと燃える“変人教師”。口車に乗せられ、いつのまにか入部させられた。
 タバコで痛んだ肺では、息があがる。すぐに退部するつもりだった。だが、体を激しくぶつけ合うラグビーが性にあっていたのか。味わったことのなかった、仲間に必要とされる快感が身にしみたのか。いつしか魅力にはまった。2年生で全国高校選抜に選ばれラグビー界に名を馳せると、大学でも名選手として活躍。立派なアスリートに生まれ変わった。
 現在は、高校教師としてラグビーを教えている山本には、今でも忘れられない記憶があるという。実は、訳あって母親のいない家庭で育った。弁当は山本だけがいつもなし。昼食は居場所のない、孤独な時間だった。ある日の昼休み、ひとりでぶらついていると、山口が近づいてきた。「ほれ」。妻に作らせたという、どでかいおにぎりを差し出し去っていった。ラグビーの才能だけではない。山口は、山本という人間を、内面にある寂しさを見抜いていた。優しさに飢えたワルが、1人の大人に魅かれた瞬間だった。
 かつての自分とダブるのか、生徒にはよくこう語りかける。「どんなことでもいいから、目標を見つけて生きろ」。飾り気のない言葉に込める思い。あのとき、山口に出会わず、ラグビーに出会っていなかったら-。
 鋭いまなざしは、こう言っている。「人は、変わることができるのだ」と。=敬称略(国)
  
 (日本トップリーグ連携機構提供)

【コラム】「次世代に伝えるスポーツ物語」 第5回 クラマーコーチと大和魂 メキシコ五輪日本代表

2010年 8月 25日

 「私は、このように全員が持てる力を全て出し尽くしたのを見たことがない」。1968年10月24日、国際サッカー連盟(FIFA)から派遣されメキシコ五輪を視察したデットマール・クラマー氏は、地元メキシコを破って銅メダルを獲得した日本の教え子たちに、胸を熱くした。ピッチでは歓喜に躍動した選手たちだったが、宿舎に戻ると全員がベッドに倒れこんで動けない。水さえ飲めないまま寝入った。戦い抜いた姿にクラマー氏は涙した。
 さかのぼること8年。東京五輪を4年後に控えた1960年10月29日、クラマー氏はドイツから来日し、日本代表コーチに就任する。当時の日本はインド、香港、フィリピンにも勝てずアジアでも下から数えた方が早いサッカー弱小国だった。リフティングも満足にできない選手たちに、クラマーコーチは基本を叩き込む。だが、それだけではなかった。
 「ドイツにはゲルマン魂がある。君たち日本人にも素晴らしい大和魂があるじゃないか。私に君たちの大和魂をみせてくれ」
 少しずつ成長した選手たちは、晴れの東京五輪で8強まで勝ち上がる。特に初戦で南米の強豪アルゼンチンを3-2の逆転で破った試合は、選手たちに自信を与えた。東京五輪後、クラマーコーチはドイツに帰ったが、選手たちは「クラマーのために戦う」と4年後のメキシコに目を向け、強化を続けた。メキシコ五輪代表18人のうち14人が東京五輪代表、つまり、ほとんどが「クラマーコーチの教え子」だった。
 日本は強くなっていた。しかしメキシコには五輪直前の強化試合で0-4と敗れている。アステカスタジアムで始まった3位決定戦は、序盤からメキシコペース。それでも、じっくり守ってカウンターという作戦を立てた日本は慌てず、前半17分と39分に杉山隆一→釜本邦茂の黄金のホットラインから2点を奪う。残る時間、日本は全員で守り抜いた。GK横山謙三は、後半開始早々のPKさえ止めている。
 大会後、報告書を作成した代表コーチの岡野俊一郎氏(現・日本サッカー協会名誉会長)は参加16カ国の実力を評価し、「個人技」で日本を最低の75点とした。「まだまだ差をつけられている」。だが「精神力」は優勝したハンガリーと並ぶ100点。「宿舎に戻った選手たちは、口をきくことさえできなかった」と岡野コーチも振り返っている。
 クラマー氏は日本人の見せた大和魂に胸を熱くした。約束を守りぬいた選手たちの心に泣いたのである。7年後の1975年、ドイツの強豪バイエルン・ミュンヘン監督として欧州チャンピオンズカップ(現・欧州チャンピオンズ・リーグ)を制覇したクラマー監督は、「今が人生最高の瞬間ではないですか」と記者に聞かれ、「いいえ」と答えた。「最高の瞬間は日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したときです。私は、あれほど死力を尽くして戦った選手たちを見たことがない」
 FIFAはメキシコ五輪からフェアプレー・トロフィーを設置し、最もフェアな敢闘精神を発揮したチームを称えるようになった。第1回受賞は日本代表。そして、クラマーコーチは「日本サッカーの父」と呼ばれるようになった。=敬称略(風)
 
 (日本トップリーグ連携機構提供)

【コラム】「次世代に伝えるスポーツ物語」 第4回 師弟の信頼の絆が生んだ「東洋の魔女」

2010年 8月 11日

1964年10月23日。地元開催となった東京五輪の女子バレーボール会場、駒沢体育館にはひときわ大きな歓喜の渦が起こった。「東洋の魔女」と呼ばれた日本チームが宿敵・ソ連をセットカウント3-1で下し、金メダルを勝ち取った瞬間だった。
 「東洋の魔女」。1962年の世界選手権で圧倒的な力を見せ付けて優勝したことが名前の由来といわれている。“魔女”の大半は1959年から175連勝を成し遂げた大日本紡績貝塚工場(日紡貝塚、大阪府)の選手で、代表監督も日紡貝塚の故・大松博文監が務めた。鮮やかにスパイクを決め、回転レシーブを繰り出すさまは、まさに「魔法」のようだった。
 とはいえ、金メダルへの道のりは壮絶だった。当時日紡貝塚の選手で、東京五輪では主将としてチームをまとめた河西昌枝さん(74)は当時の練習を振り返る。「仕事を終えて4時半にコートに集まり、大松先生が6時くらいに来るまでは私が代わりにボールを打っていました。食事をはさんで午前1時から午前1時半に終了。それから簡単な夕食とお風呂などで寝るのは午前3時くらい。朝8時に起きて、9時には事務所に出ていました」。当時の企業スポーツにプロ契約は存在せず、選手も社員として仕事と練習を両立していた。この生活は、東京五輪までの4年間続いた。
 壮絶な練習を続ける大松監督。だが、反目しようとする選手は皆無だった。河西さんも「(大松監督を)心から信頼できるからついていけたのです。先生の指示を受けてやったことが勝ちにつながった」と振り返る。大松監督の口癖で、著書の題名にもなった「成せば成る」(元は米沢藩主、上杉鷹山の言葉)。この言葉を胸に、「五輪で金メダル」という至上命題に向け、師弟は一つになった。
 世界へ挑戦するためには課題もあった。国内で無敵だった当時は9人制だったが、折しも、東京オリンピックから6人制のバレーボールがオリンピックの正式種目となった。これ以上ない晴れ舞台に照準を合わせ、外国から本を取り寄せて翻訳したり、写真を見て研究したりと、自分たちでハンデを克服した。これが1960年の世界デビュー、そして世界での躍進へとつながっていった。
 スポーツに科学的理論など無いに等しかった時代。名将、大松監督の厳しくも愛情あふれる指導と選手の血のにじむような努力の積み重ねが、普通の女性を“魔女”に磨き上げた。=敬称略。(有)

(日本トップリーグ連携機構提供)

【コラム】「次世代に伝えるスポーツ物語」 第3回 マラソン金栗四三、五輪での屈辱をバネに

2010年 7月 19日

 1912年5月16日、新橋発敦賀行き列車に、青年2人が乗り込んだ。陸上短距離の三島弥彦(東京帝大)と、マラソンの金栗四三(東京高師=現筑波大)。日本選手が初めて五輪史に名を残したのがこの2人。日本が初参加した1912年ストックホルム五輪への旅立ちだった。
 敦賀から船でウラジオストク、シベリア鉄道を乗りつぎ、さらにモスクワから再び船に乗り換えてストックホルムにたどり着いたのは6月2日。実に18日間も要した。金栗20歳の初夏だった。
 「第5回オリンピック大会の予選会を行う。種目は百、二百、マラソン(当時は25マイル=40・2335キロ)。希望者は申し出るよう」。新聞に掲載された国内予選会の募集記事を目にした金栗は「自分の脚力を試すチャンス」との思いで参加を決めた。この予選会は五輪前年の11年11月19日に行われ、脚力自慢19人が参加。ここで金栗は2時間32分45秒で優勝を果たす。しかも従来の記録を大幅に上回る世界最高記録(当時)をマークしての快挙とあって、「あわよくば優勝も」との期待を背負っての渡欧ともなった。
 しかし日本初参加の檜舞台では期待を裏切ることになる。マラソン当日の7月14日は、30度を超える暑さに見舞われ、熱中症に陥っての途中棄権。嘉納治五郎団長に「日本スポーツ界の黎明の鐘となれ」の檄を受けながらの挫折だった。
 ストックホルム五輪に続き、20年のアントワープ五輪(16年ベルリン五輪は第1次大戦のため中止)、24年パリ五輪の計3大会にマラソン代表として出場を果たすが、16位に入ったアントワープ五輪を除いて途中棄権に終わる。この不本意な成績が、その後の金栗の人生を決めることにもつながった。
 五輪での“屈辱”をバネにマラソンの普及、選手の育成に尽力。欧米選手の使っていたシューズに対抗すべく足袋を改良したほか、ペース配分や歩幅と所要時間の関係など貴重な経験を後進に伝えた。さらに箱根駅伝の企画から実現にも奔走した。
 その金栗は67年、ストックホルム五輪55周年の際、スウェーデンに招かれ、思い出のスタジアムでゴールテープを切った。記録は54年8カ月6日5時間32分20秒3。そのときスタジアムにはアナウンスが流れたという。
 「日本の金栗ただいまゴールイン……これでストックホルム大会の全日程が終わりました」=敬称略。(昌)

(日本トップリーグ連携機構提供)

【コラム】「次世代に伝えるスポーツ物語」 第2回 敗戦に沈んだ日本に希望の灯をともした「フジヤマのトビウオ」

2010年 7月 7日

 「我々は《プリンス・オブ・ウェールズ》を忘れない」。古橋広之進は1948年ロンドン五輪開催の1カ月ほど前に、こう記された電報が届いたと聞かされた という。第二次大戦初期、日本軍がマレー沖で撃沈した英国戦艦の名を記した電報。戦後初の五輪への参加が断たれたことを知った瞬間だった。

 その前年の8月、神宮プール(2003年に閉鎖)では世界記録が誕生していた。戦後初めての水泳の日本選手権で、古橋が四百メートル自由形で 4分38秒4の世界新を樹立。当時、日本水泳連盟は国際水泳連盟から除名されていたため、公認されない幻の記録ではあったが、日本にとっては希望の灯と なった。

 「五輪で日本の実力を示したい」。この思いを断たれた日本水連は妙案をひねり出す。日本選手権をロンドン五輪の日程に合わせて開催し、記録の 上で世界と戦おうという計画を立案。いわば日本水泳界が世界に叩きつけた挑戦状だった。大会プログラムには当時の日本水連会長、田畑政治の「ロンドン大会 に挑む」と題した“檄文”が掲げられた。
「もし諸君の記録がロンドン大会の記録を上回るものであるならば……ワールド・チャンピオンはオリンピック優勝者にあらずして日本選手権大会の優勝者である」
48年8月6日。男子千五百メートル自由形決勝。神宮プールは1万7000人の観衆で膨れ上がった。そして古橋は期待通りに、世界記録を21秒 8も短縮する18分37秒0という驚異的な記録で優勝を果たす。ロンドン五輪優勝のマクレーン(米国)の19分18秒5を大幅に上回る圧勝だった。2日後 の四百メートル自由形でも世界新を樹立。「朝昼晩とサツマイモ。あとで計算してみると、1日、900キロカロリーぐらいだった」という中での快挙は国民を 熱狂させた。

 翌年、日本水連は日本スポーツ界のトップを切って国際競技連盟へ復帰。そして49年8月、古橋らはロサンゼルスで開催された全米選手権に招か れ、ここでも世界新を連発した。敗戦国から来た五尺七寸五分(約174センチ)、十九貫(約71キロ)の20歳の青年の偉業に、現地の新聞は写真入で大き く報じ、「フジヤマのトビウオ」と絶賛。あまりに有名なニックネームが生まれた。

 生涯で世界記録を実に33回も塗り替えた「フジヤマのトビウオ」も五輪とは縁が薄かった。絶頂期に五輪出場を拒まれ、その後、南米遠征時にア メーバ赤痢にも罹患した古橋は、日本が戦後初参加した52年ヘルシンキ五輪に出場したものの、四百メートル自由形で8位。五輪でメダルを獲得することはな かった。=敬称略。(昌)

(日本トップリーグ連携機構提供)

【コラム】「次世代に伝えるスポーツ物語」 第1回 サッカー・初出場の五輪で「ベルリンの奇跡」を演ず

2010年 6月 7日

 五輪におけるサッカー日本代表の活躍としては1968年メキシコ五輪での銅メダル獲得が最も華々しいだろう。だが、それに遡ること32年。日本サッカーが世界を驚かせる快挙を演じていた。36年ベルリン五輪。五輪初出場ながら優勝候補に挙がっていたスウェーデンを逆転で破る大金星をあげたのだ。

  参加は16カ国。日本は早大の現役、OBを中心に、慶大、東大らの選手が加わった構成で臨んだ。実力のほどは現地入りしての練習試合で初めて国際的に主流となっていた3バックシステムを目の当たりにしたというほどだった。それだけに1回戦でいきなり強豪スウェーデンとの対戦では、戦う前から勝敗は明らかと誰もが思っていただろう。

  予想通り試合はスウェーデンの一方的なペースで推移した。前半を終えて0-2。だが、どんな状況でも「決してあきらめない」という姿勢が奇跡を生む。後半に臨むスウェーデンには気の緩みもあったに違いない。日本はその隙を豊富な運動量でこじ開けていった。後半4分に川本泰三、同18分には右近徳太郎がゴールを決めて同点に追いつくと、流れは日本に傾いた。

  そして残り5分、相手GKと1対1となった松永行が決勝ゴールを決め、3-2。終盤のスウェーデンのすさまじい猛攻を何とか耐えしのぎ、大金星に結びつけた。「リードしてからの5分間、あれは長かったなあ」。フルバック堀江忠男は後にこう振り返っている。堀江は後に早大監督を務め、メキシコ五輪銅メダルに貢献した釜本邦茂、元日本代表監督の岡田武史らを育てる。その意味で現在に続く日本サッカーの基礎を築いた1人といえる。

  続く2回戦ではこの大会で優勝を果たすイタリアに0-8で大敗したが、「ベルリンの奇跡」と呼ばれた日本の五輪初勝利は、世界を驚かせた。そしていかにスウェーデンがこの逆転敗けを悔しがったか、を示す後日談も残されている。

  49年、日本で初めてノーベル賞(物理学)を受賞した湯川秀樹が授賞式出席のためにストックホルムを訪ねた際、現地の記者からサッカーボールを手渡された。スウェーデン人にとってベルリン五輪での逆転負けがいかに記憶に残っていたかを示すエピソードだ。さてサッカーボールを手にした湯川だが、その際、ヘディングをする格好をして拍手を浴びたという。=敬称略。(昌)

※日本トップリーグ連携機構の提供によりコラムを掲載しております。

【コラム】「ボールであそぼう」 第8回 国が示す子どもの体力向上のための政策目標

2010年 5月 29日

日本トップリーグ連携機構「ボールであそぼう」連載(全8回)


8.国が示す子どもの体力向上のための政策目標

〔日本のスポーツ振興方針〕



 現行のスポーツ振興基本計画は10年間のスポーツ振興に関わる国の方針を示した計画で、2010年で終了します。現行の政策目標の1番に挙げているのは子どもの体力です。子どもの体力向上を基本に、生涯スポーツ、競技スポーツを普及・振興をしていこうと考えられています。
 現在、新たなスポーツ振興基本計画について、中央教育審議会のなかのスポーツ振興に関わる特別委員会で議論されています。2009年の5月から7月にかけて、日本オリンピック委員会や日本体育協会といった、12の中央スポーツ団体に対してヒアリングを実施しました。スポーツ振興法をひとつ格上げの法律=スポーツ基本法に引き上げたいという思いも関係者の中であり、国会で上げていくことも検討されています。
 日本のスポーツは、教育を統括する文部科学省に組み込まれていますが、そこから離れて、スポーツ庁を設置したいという動きもあります。諸外国のアメリカ、オーストラリア、ドイツでは、教育とは分けて作られています。
 日本でも、文部科学省以外に農林水産省、経済産業省、外務省、厚生労働省といった官公庁が子どものスポーツに関する取り組みを実施しています。今後は、文部科学省だけではなく、横断的にスポーツを考える必要があります。

〔学習指導要領の改訂〕





 小学校の学習指導要領においても、動きを基本として考え、体育の授業の中で経験できるように改訂されました。子どもたちの体力・運動能力が非常に低下していることを背景に、体育も内容が変わりました。子どもたちの状況を打開すべく、学校体育現場においても子どもの体力向上に取り組もうという主旨で改訂されました。
 幼稚園、小学校、中学校、高校の学習指導要領が改訂され、厚生労働省から出されている保育指針も全面改訂となりました。2010年の4月から移行措置も含めて新しいカリキュラムで日本の子どもたちの教育が始まっています。

〔各団体による子どものからだ・運動に着目した取り組み〕





 具体的な子どもの体力向上を含めた、体や運動に着目した取り組みは、学習指導要領や幼稚園教育要領の改訂を含め、文部科学省だけでもたくさんの事業を行っています。主に体作りや体力向上を中心に体育や健康づくりが考えられています。幼稚園、保育園の体力向上ではなく、体力の基礎を培う、面白い、楽しい場面を作ることが将来の子どもたちのスポーツの実態につながります。
 日本レクリエーション協会は、元気アップ親子セミナーを全国で年間400校の小学校や幼稚園で実施しています。親子が肝ですので、親の意識を変えるために、お父さんやお母さんにも参加してもらい、体を動かしながら、子どもの状況を聞いてもらうことが必要です。厚生労働省もこのような対策を進めています。経済産業省はスポーツ健康産業団体連合会を中心に研究を進めています。
 トップリーグ連携機構や日本体育協会、日本レクリエーション協会といった外郭団体においてもさまざまな、子どもに対するプログラムが行われています。民間企業でも取り組みを始めました。
 日本トップリーグ連携機構が展開する「ボールであそぼう」がきっかけになって、日本の子どもたちが、体力の向上だけではなくて、心も豊かになるようなきっかけになればと考えています。




(日本トップリーグ連携機構提供)

【コラム】「ボールであそぼう」 第7回 投げる動作フォームの発達例

2010年 5月 27日


7.投げる動作フォームの発達例

〔投げる動きの洗練化〕


 「投げる」という動作には、サッカーのスローインのように両手で持って頭の上から投げる、ソフトボールの投手のように下から投げる、両手で下から投げる、チェストパスをするなどというようにいろんな投げ方があります。
 ここでは、幼稚園の年長の子どもたちを対象に、「投げる」を1つの例として、片手でボールを持って上手で投げる、いわゆる野球型・ソフトボール型の投げ方を使って評価をしています。
 上の写真(パターン1)では、子どもはただボールを持って、放っているだけです。ところが、下の写真(パターン2)では、ボールを持って、投げる前に体をひねっていることがわかります。下の写真の子どものほうが、からだをひねるという動きが、発達しています。




 次の写真を見てみましょう。1枚目の写真との違いは、足のステップが確認できます。上の写真(パターン3)の子どもは、右手で投げて、右足を出しています。あまりかっこよくはない投げ方だと思います。しかし、ほとんどの人が、初めてボールを持って投げるときには、足を出したとき、投げる側と同じ側の足を出しています。
 この動きには理由があって、からだのバランスを取るために、同じ側の手と足が出るようになっています。逆に、反対側の足を出すと不安定になります。子どもたちは、自分たちの経験の中から安定した動きを選び、投げる側と同じ側の足が出るようになっています。
 実際には、この投げ方では遠くに投げたり速いボールを投げたりすることはできません。そこで、子どもは目的を持って遠くに投げるために、他の子どもや先生たちの動きを見ながら、逆足を出すように発達していきます。
 動きのフォームを、指導者が正しい動きを伝えるということも大事ですが、幼少年期の子どもにとっては、目的を明確にさせて自分で動きを良くしていくということが大事だと考えています。幼少期の時点で、子どもに対して「左足を出せ!」と言ってしまうと、その時はできても、自分のものとして体得できない、といった研究もあります。

 下の写真(パターン4)の子どもは、この中では最もよい動きです。体を大きくひねっていますし、脚も腕もバランスをとって上げています。大きなステップで、フォロースルーもできています。紹介したようにパターン1、2、3、4の流れで、足のステップが始まって(パターン3)、この子(パターン4)に至ります。パターン4の次には、パターン5というのがあって、野球の投手で遠くに投げるためにワインドアップモーションをして投げるというようなものがあります。写真がないのは、幼児期の頃にワインドアップモーションで投げる子どもが、今はほとんどいません。
 写真の中で動きが未熟な子ども、ひねらずにボールを放っている子どもは、パターン1です。逆足を出して大きな動きでひねって投げている子どもをパターン4とします。投げ方で分類すると、今の子どもたちは、パターン1とパターン2がほとんどです。足のステップがなくて、少し体をひねりながら投げています。
 パターン3は、ステップはしますが、同じほうの足を出しています。パターン3は、男の子にはいますが、逆足を出せる女の子はほとんどいない状況です。

〔投げる動きの洗練化〕





 動きに着目した研究は、1985年頃、日本において体力低下が始まったと言われている年に体系化されていました。日本の子どもたちのいろんな動きをみる基準が具体化されました。
 1から5までの動きの基準は、85年くらいにまとめられた基準です。当時の基準では、グラフは正規分布を示していました。正規分布では、中央の値「3」が最も高く、次に「2」「4」の値が高く、両端の値「1」「5」が低くなっている山形の状態です。
 しかし、現在のデータは、25年前の基準を使って、今の子どもたちの動きを評価すると、大きく左に寄ります。今の子どもたちは動き方が洗練化されていないことを示します。いろんな動きを経験することもなく、一つの動きも上手になっていない、ということになります。
 これは、ある特定のスポーツをやっていて、そのスポーツに含まれている動きは上手です。小学校高学年を対象に、少年団や幼児の頃からサッカーあるいはバスケットボール、野球だけをやっていた子どもを調査しました。その結果、サッカーをやっている子どもは蹴ることは非常に上手ですが、投げることやボールをつくことは上手くできませんでした。バスケットボールをやっている子どもは、ボールをつくことは非常に上手だけれども、蹴ることは上手くできないというように競技特性が出てしまうという実態を把握しています。
 「投げる」という動きを中心にお話しましたが、他の動きでも同様のことが起きていると考えられます。


〔50m走でまっすぐ走れない大学生〕

 山梨大学では、毎年大学1、2年生1,400人くらいが、全員体力テストを受けます。20年間ずっと体力テストを見てきましたが、18~19歳の男子の学生の投球動作は、前述したパターン1、パターン2の学生がたくさんいます。ハンドボールを持って、ひねることができず、ボールを持ったら、少し引いて正面に放るという投げ方をします。記録は、6~7m程度です。18~19歳というのは、体力・運動能力のピークで、個人内でピークにある年齢です。この時期の投げた距離が、6~7mということは、これが一生のうちで最も投げた距離になってしまいます。
 50m走では、2人から3人が、一緒に走って測定をしています。陸上ではレーンがあって、3レーン、5レーンというように、間を空けて走るようにしています。1レーンは、約1m25cmですから、隣で一緒に走る人とは少なくとも1m50cmくらいは空いているはずです。この50m走で3人並べて測定をすると、15回に1回くらいは途中で測定をやめさせることがあります。その原因は、フライングではなく、隣のレーンの走者とぶつかるからです。
 最近では、50mを全力でまっすぐ走れない大学生がたくさんいます。まっすぐ走るだけの経験ではなくて、横に走ること、後ろに走ること、いろんな物を持って走ること、ボールを投げながら走ること、いろんな経験がないことから、まっすぐ走るのもままならないという学生も出てきました。
 このように動きというのは、経験とともに上手になっていくはずですが、動きが上手くならず、低いレベルで留まってしまっている子どもがたくさんいます。

(日本トップリーグ連携機構提供)

【コラム】「ボールであそぼう」 第6回 幼少年期の動作の発達

2010年 5月 18日

日本トップリーグ連携機構「ボールであそぼう」連載(全8回)


6.幼少年期の動作の発達

〔幼少年期の動作の発達〕


 生涯にわたって、幼少年期(2,3歳)から幼稚園から小学校を卒業する(11、12歳)までの期間が、一生の中で動きを身につけることに最も適した時期と言われています。教育学では「発達課題」と言われています。心理学などでは「臨床期」、「臨界期」、あるいはそのときに一番身につけることが大事ということで「強調期」というふうに言われています。
 この時期は、子どもたちにとって、動きの多様化、量的な獲得をして、動きを洗練化させ上手にしていくために大事な時期と言えます。投げ方が上手になる、蹴り方が上手になる、ボールのつき方が上手になることが最も身につきやすいと言われています。そのため、この時期にいろんな動きを経験して、いろんな動きを身につけて、なおかつ、動きが上手になっていくことが必要です。
 動きの習得には、多様な「動き」を多く獲得することと、その獲得する「動き」が上手になる、洗練されるという二つの方向性を持っています。いろんな動きをたくさん経験することによって、その中で、一つひとつの動きが上手になっていきます。
 こういった、動きの質に関する研究を日本で最初にやったのは、現在、十文字学園女子大学の学長をされている宮丸先生です。運動を結果で見るのではなく、動き方を見る研究です。
 例えば、陸上競技において、「速く走れ」と言うことは指導とはいえません。速く走るためには、「腕を大きく振りましょう」とか「脚を高く上げましょう」といった動き方の指導をしていきます。投げた距離、走った時間、あるいは跳んだ距離といった結果だけではなくて、動き方そのものを見ていく研究があります。

〔からだの動き、基本36動作〕



 幼少年期に身につけてほしい「いろんな動き」を36示します。36の動作には、平衡系9コ、移動系9コ、操作系18コの動きが含まれます。平衡系は「バランスをとる動き」、移動系は「体を移動させる動き」、移動系は「物を操作したり、自分や相手の体を操作したりする動き」です。これが、量的な動きの獲得、多様化というところに値します。幼少年期の間に子どもたちが、36コの動きをいろんな形で経験することが大切だと考えられています。
 アメリカの研究では、平衡系はスタビリティムーブメント、移動系はロコモーティブムーブメント、操作系はマニピュレ-ションムーブメントと言います。
 これは生涯にわたって、この幼少年期の頃に身につけることが望ましいと思われる基本の動きを抽出しています。基本の動きとは何か?どんな動きをしたらいいのか?という研究は、30年くらい前に各国で行われました。
 日本では、1980年に当時の文部省(現文部科学省)の外郭にあった、体育科学センターが84種類の動きを示しています。ヨーロッパ、アメリカといった欧米の研究者たちも基本の動きを提示していて、24種類、51種類の動きをそれぞれ示しています。今の日本の子どもの実態に応じてまとめると、この36というのが基本の動きとして、よいのではないかと思っています。
 NHKの「からだであそぼ」という番組では、この36の基本の動きをコンセプトとし、いろんな動きを経験できるような内容になっています。2010年4月から「あさだからだ」に変わりましたが、子どもの動きに着目した番組を5年間続けています。

(日本トップリーグ連携機構提供)

【コラム】「ボールであそぼう」 第5回 ドイツとオーストラリアの取り組み

2010年 5月 9日

日本トップリーグ連携機構「ボールであそぼう」連載(全8回)


5.ドイツとオーストラリアの取り組み

〔諸外国の子どものスポーツ環境〕


  
 諸外国の子どものスポーツについては、体育学会の中で、大きなシンポジウムが開かれました。また、文部科学省や日本体育協会のスポーツ科学研究室を中心に視察調査を行っています。
 アメリカは、2009年7月に子どものスポーツに対して推奨し始めました。小学生以下の全国大会・ブロック大会の全面禁止し、それぞれの地域にあったローカルルールの推奨することによって、競争を重視した全国大会はなくなりました。
 中学生、高校生になってから競技スポーツをやるのはよいですが、小学生以下の段階では、発育発達の点で見合わないということが明確に示され、14州がその制度を取り入れています。
 また、日本のスポーツ少年団のような、子どものスポーツを提供するクラブは、3種目以上のスポーツを揃えたクラブ作りをしようと推奨しています。
 日本でも、諸外国に習おうと、イギリスの少年スポーツに詳しい先生を呼んで話を聞いたり、日体協のスポーツ科学研究所が中心になって、6人編成の調査団を派遣したりしています。イギリスでは、クラブの名称としてはサッカークラブやバスケットボールクラブと呼んでいても、多種目の運動やスポーツを提唱していて、トレーニングや練習に比重をおかないで、スポーツを楽しむことを小学生以下には伝えています。つまり、技術練習よりも、定期的な運動遊び、スポーツ実施を通じて、結果的に子どもたちがスポーツを好きになるように考えられています。
 海外の子どものスポーツに対する取り組みと日本の子どものスポーツの現状を考えると、今後のひとつの方向性として、子どもが楽しく面白くのめり込むようなスポーツを提供することが大切になってきます。
 小学校の高学年から中学生、高校生と学年が上がるごとに、それぞれの競技性が高まっていくことは重要です。しかし、幼児や小学校低学年といった幼少年期には、子どもたちがより楽しく複数のスポーツを体験できる機会が必要です。
 子どもの時に運動嫌いになってしまうと、大人になってからもスポーツから離れる可能性があります。スポーツが得意な子どもだけでなく、低体力や低運動能力の子どもが楽しく遊べるスポーツの場や仕組みの提供も考えていく必要があります。

〔ドイツの取り組み〕




 ドイツには、スポーツユーゲントという団体があります。これは、日本のスポーツ少年団が発足する際に1つのモデルとした団体です。競技種目にはこだわらず、いろいろなスポーツに取り組んでいます。
 写真は、幼稚園内の遊戯室です。子どもたちが楽しそうに遊んでいますが、子どもの運動能力が高いことに驚きました。子どもたちは、高いところから1回転して降りたり、平均台を後ろ向きに歩いたりしています。この動きは、誰かが教えているわけではなく、年長から年中さんへ、年少さんへと少しずつ伝承されています。子どもたちは、自由に遊びの中で、子どもたち同志で、競い合いながらいろいろな動きを覚えていきます。
 写真の中にいる大人は、ボランティアとして活動するプレイリーダーです。プレイリーダーの役割は、何かを指導するわけではなくて、子どもたちに付き添って安全管理や一緒に遊ぶことです。ドイツには徴兵制がありますので、徴兵の代わりに、このようなボランティアを選択する若者もいます。

〔オーストラリアの取り組み〕





 オーストラリアでは、3年前から国を挙げて大規模な子どもの運動・スポーツに対する取り組みを始めました。AASC(Australia After School Community)という取り組みで、政府がすべて資金を出しています。放課後の子どもたちを対象に、コミュニティを大事にしながら提供される運動プログラムです。週に2~3回、主に運動が嫌い、得意でない、低体力、低運動能力といった子どもたちを中心にプログラムが提供されています。
 キャンベラにある小学校の先生は、プレイデリバラー(=遊びの配達人)といわれています。コーディネーターは体育指導委員のような方で、週に1回、翌週、翌々週の運動プログラム提供を考えるミーティングを2時間くらい開催しています。子どもの実態に合わせながら、独自に運動プログラムを検討し、キットや遊戯も作られています。


(日本トップリーグ連携機構提供)